傲慢

【ごうまん】名詞

使い分けの視点

「傲慢」は自分を暗黙の基準より上へ置き、他者の声を低く扱う評価です。「驕り」「慢心」は内側の誤認へ、「人を見下す眼差し」「踏ん反り返る」は外から見える高さへ寄ります。先に提案を遮る、席を譲らないなど一動作を置き、誰がどの基準から見た評価かを示します。

同義語

同品詞の類義語

驕り文芸的
高慢
尊大文芸的
不遜文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

鼻にかける姿勢colloquial
人を見下す眼差し
天狗の鼻colloquial

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

王のような文芸的
君臨するような文芸的
見下ろすような

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

踏ん反り返るcolloquial
見くびる
鼻にかけるcolloquial

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

思い上がり
慢心文芸的
おごり
自惚れ

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

降りない席エッセイ関連

例文: 領主は降りない席から民を裁き、足元の洪水を一度も見なかった。

名指した瞬間に減るもの——自称できない評価語の構造

「あのとき自分は思い上がっていた」と登場人物に言わせた瞬間、その人物は少しだけ救われてしまいます。読者はそこで、この人はもう以前の彼ではないと受け取る。過ちを認める文は、認めた内容を部分的に打ち消してしまうらしい。台詞そのものは何も否定していないのに、発話という行為の側が効いている。ここから考え始めます。

似た座りの悪さは、論理学でよく取り上げられる文の形にも現れます。「雨が降っているが、私はそれを信じていない」。この文は矛盾を含んでいません。雨が降っているという事実と、ある人がそれを信じていないという事実は、同時に成り立ちます。それでも本人の口からは出てこない。述べるという行為が、述べた内容を信じているという構えを連れてくるからです。自分を高慢だと述べる文も、これに近い位置にあります。内容としては真でありうるのに、発話としては成立しにくい。しかも他人については何の抵抗もなく言える。一人称と三人称で通りがここまで違う語は、そう多くありません。感情を表す形容詞ではむしろ逆で、自分の悲しみは断定できるのに他人の悲しみには制限が付く。評価語では非対称の向きが反転しています。

この語がなぜそういう振る舞いをするのかを考えると、記述と評価が分かれていないことに行き当たります。倫理学には、事実の記述と価値の判断が分かちがたく絡んだ語を厚い概念と呼ぶ議論があります。残酷、卑劣、勇敢——どれも、何が起きたかを述べる仕事と、それをどう評価するかの仕事を一語で兼ねている。この語もその一員です。ある人物が自分を高い位置に置いているという事態の記述と、それを悪いと見なす評価が、同じ二字に畳み込まれている。だから中立に報告しようとしても、報告した時点で評定が済んでしまう。薄い語に開いて「自分の能力を高く見積もっている」と書けば評価は外れますが、外れた瞬間に、読者が受け取る非難の重さも一緒に落ちます。含みだけを残して評価を消す道は、この種の語には用意されていません。

ただ、ここで引っかかります。ならばこの種の評価は決して自称できないのかというと、そうでもない。「自分は傲慢な人間です」と言い切る人物は書けますし、しかもその人物はまさしくそう見える。何が違うのか。おそらく時制と含みでしょう。過去形で語れば反省の含意が付き、現在形で言い切れば開き直りになる。同じ語が、活用ひとつで自己否定にも自己主張にも転ぶ。含意は語の中ではなく、語の周りに宿っています。

もうひとつ、否定のふるまいも一様ではありません。「彼は傲慢ではない」は謙虚だと言っていない。その逆に「謙虚ではない」も、高ぶっていると言っていない。二つの語の間には広い中間帯があり、否定はそこへ着地するだけで反対側までは届かない。理由は単純で、この語が「ある基準より上に自分を置いている」という比較を内蔵しているからです。比較には基準が要る。ところが基準は文面に出てこず、前提としてそっと持ち込まれる。しかもその基準は目盛りのある数量ではなく、順序でしかない。誰かと比べて高い、という相対の情報しかない場所で絶対的な評価を下せば、測っている人間の立ち位置が必ず紛れ込みます。

推論の道筋にも、同じ弱さが残ります。読者や語り手が手にしているのは振る舞いだけで、内側の自己評価そのものは見えません。見えている行動から、それを最もよく説明する内面を選び取る——この形の推論には、常に別の説明が併存します。会議で人の話を遮る人物には、自分を上に置いているという説明も、耳が遠いという説明も、時間切れを恐れているという説明も同じだけ当てはまる。前提が真でも結論が真になる保証はない、という意味では、これは演繹ではありません。だから物語の中でこの語を地の文で断定すると、書き手は最良の説明をひとつ選んだうえで、選んだこと自体を読者に隠したことになります。

だから実務としては、その隠れた基準を場面のどこかで一度だけ露出させることになります。部下の提案を最後まで聞かずに次の議題へ移した、という程度の一動作でいい。判断語を添えずに置き、誰がそれを見ていたかだけを明示する。順番が逆でも構いません。基準さえ見えれば、読者は名付けを自分で行います。そして読者が自分で下した評価は、地の文が与えた評価より簡単には取り消せない——冒頭の台詞がその人物を救ってしまうのは、評価がもともと地の文の側にあったからです。

文: hakadoru.ai 編集部

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