口に出して数えると八拍あります。せ・ん・り・つ・の・よ・う・な。連体修飾の句としては長い部類で、同じ意味領域にある「歌うような」の六拍と比べると、二拍ぶん重い。二拍の差は表で見ると小さく見えますが、音読すると誰にでも分かる程度の差になります。文の途中にこれを差し込むと、そこで速度が一段落ちる。内訳を見ると、八拍のうち一拍が撥音です。促音も拗音も含まず、残りは開音節が続く。摩擦音で始まり、途中に流音が一つ入って、あとは母音の連続で終わる。詰まる音がないので、長さのわりに滑らかに流れます。長い句には二種類あって、詰まる音を含んで途中で引っかかるものと、詰まらずに長く伸びるものがある。これは後者で、だから重さの感じ方が、単純な拍数から予想されるより軽い。
同じ枠に別の核を載せて比べると、選べる幅が見えてきます。のような の部分は の・よ・う・な で四拍と決まっているので、句全体の長さは前に置く名詞だけで決まる。うた は二拍、しらべ は三拍、せんりつ は四拍。句にすれば六拍、七拍、八拍と一拍ずつ並びます。ここに めろでぃー を入れると、め・ろ・でぃ・ー で四拍、句としては八拍になり、この見出し語の句とちょうど同じ長さになる。長さが同じでも、受ける印象は揃いません。片方は漢語で、もう片方は外来語だからです。拍数は選択肢を絞りますが、最後を決めるのは語種のほうで、長さだけを頼りに置き換えると、文体の層が段落の途中で急に切り替わります。同じ八拍でも、外来語の核は現代的で軽い連想を連れてきますし、漢語の核は書き言葉の側へ引き戻す。数え終えたあとに、もう一度考える工程が要ります。
八拍という長さには、もうひとつ都合のよい面があります。日本語の韻律は二拍をひとまとまりとして扱う傾向があると説明されることが多く、略語が四拍に整えられやすいことがその証拠としてよく挙げられます。八拍は二で割り切れて余りが出ない。七拍の句だと最後に一拍ぶんの空きができる——読み手はそこを微かな休みで埋めることになります。五音七音の詩型を、八拍の枠に休拍を補って読むものとして説明する立場も、同じ考え方の上にある。だからこの句は、長いわりに据わりがよい。長さの負担と、割り切れることの安定が、同じ八拍の中で打ち消し合っています。長い句が必ず重くなるとはかぎらない、という反例のひとつです。七拍の句のほうが、数の上では短いのに落ち着かない、ということが起こります。
ここから音象徴の話に進みたくなるのですが、そこは慎重に扱うべき領域です。特定の子音が特定の印象を喚起するという主張には古くから関心が寄せられてきた一方で、どこまでが言語をまたいで再現するのか、どこからがその言語の語彙分布に由来する連想なのかは、議論が続いています。安全に言えるのは、もっと構造的なことのほうです。この句は漢語二字を核に持っている。同じ意味領域の和語系の言い方と並べたとき、硬さと、話者からの距離が生まれる。柔らかく寄り添う描写に据えると、その距離が浮きます。逆に距離が要る場面でなら、その硬さはそのまま働きます。
長さの効き方は、直後に何を置くかで反転します。「旋律のような声」のように二拍の名詞が続くと、修飾部が被修飾部の四倍の長さになり、飾りが本体を押し潰す。読者の注意は、描写された声ではなく描写の言い回しのほうに向かってしまう。逆に被修飾部を長く取れば、比率が均されて句は沈みます。ここまで拍で説明しましたが、拍数だけで決まると言うのは粗すぎる。前後の文の長さ、その段落全体のテンポ、直前に句点がいくつ並んだか——同じ八拍でも、速い段落に置けば突出し、緩い段落では埋もれます。拍数は素材の側の性質であって、効果のほうは配置で決まる。
この句にはもうひとつ、ややこしい性質があります。音を描写するための句でありながら、それ自身が音を持っている。描写の対象と描写の手段が同じ層にあるので、読んだときの響きが悪ければ、内容のほうが嘘になる。滑らかさを語る一行が口の中でつかえたら、読者は書かれた内容ではなく、つかえた事実を受け取ります。他の感覚を扱う比喩なら、多少ぎこちなくても内容は無傷で届く。音についての比喩だけは、この免除を受けられません。
だから確かめ方も決まってきます。声や音を描く行は、黙読ではなく実際に発音してみる。八拍が長すぎると感じたら短い言い方に替え、被修飾語との比率が悪ければそちらを伸ばす。意味の適否は辞書で確かめられますが、この種の適否は口でしか確かめられません。