布を明かりに透かすと、織りの善し悪しがすぐ分かります。糸が細く、打ち込みが多いほど、光の抜ける穴が小さくなる。手で触れる前に目で分かるこの性質を、日本語は長いあいだ織物の語彙で扱ってきました。この二字熟語の上の字が糸偏を持つのは、その名残です。旁は「致」で、字の音を担う部分と考えられています。糸に関わる字で、音が「チ」——由来としてはそれだけの話ですが、糸偏という選択そのものに、詰まり具合を目で測る発想が保存されています。
糸偏の字を集めてみると、この発想の広がりが見えます。細い、繊い、織る、結ぶ、約める、絹、綿、縫う、そして級。太さ、密度、順序、区切り、束ね方——布を作る工程で必要になった概念が、そのまま抽象語の材料になっています。密度という概念を人間がどこで最初に手に取ったかと考えると、粉でも液体でもなく、布だった可能性が高い。糸の間隔は数えられるからです。数えられるものに対してだけ、人は細かさの目盛りを作ることができます。
和語の側も、同じところから密度を取り出しています。きめ細かいの「きめ」は、木の目や皮膚の表面に並ぶ細かい模様を指す語で、木目から来たという説があります。漢語も和語も、密度を言うのに面という具体を経由し、そこに並んだ目を数えている。畳の目、紙の目、鑢の目と、面の細かさを言う単位として目という語は広く使われてきました。ただし和語のほうは目の細かさだけを言い、隙間が埋まっているかどうかには踏み込みません。使い分けの根拠はここにあります。細かいと言えるだけでは、この二字は使えない。網の目がどれほど細かくても、目と目のあいだが空いていれば、その網は細かい網であって詰まった網ではありません。単位が小さいことと、隙間が残っていないことは別の条件で、この語は二つを同時に要求します。線を極端に細く引いた素描でも、紙の白が広く残っていればこの語が据わらないのは、そのためです。
下の字は別方向から来ています。屋根を表す部分の下に山を置いた形で、『説文解字』は山のかたちに関する字として説明しており、もとは山の奥深さや静けさを表したという説があります。そこから、隙間がないこと、外から見通せないこと、人目に触れないことへと意味が広がりました。密林、稠密、密会、密告——同じ字が「詰まっている」と「隠されている」の両方を担っているのは、この経路を通ったためだと考えられます。奥まで詰まっていれば、外からは見えない。二つの語義は同じ事態の表と裏です。
反対側に置かれる字を見ると、下の字が担う軸がはっきりします。密の対になるのは疎で、疎水、疎通、過疎、空疎と並べれば分かるとおり、こちらは通ること、まばらであること、隙間が残っていることを引き受けています。密と疎が作っているのは量の目盛りというより、通るか通らないかという一本の軸です。糸偏の字が数えられる目の細かさを持ち込み、下の字が通行の可否を持ち込む。疎密という一語がそのまま立つのも、二つの字が同じ軸の両端を占めているからでしょう。この二つの尺度は本来は独立していますが、布の上でだけは一致します。目が細かくなれば、光も風も水も通らなくなるからです。冒頭の透かしがそのまま検査になるのは、二つの尺度が布において重なっているためでした。
そうすると、この熟語は同じ方向を向いた二字を重ねた構造だと分かります。日本語の二字漢語にはこの型が非常に多く、豊富、堅固、峻厳、いずれも近い意味の字を並べて意味を安定させています。ただ、ここでの重ね方には少し傾斜がある。上の字が持ち込むのは目で数えられる密度で、下の字が持ち込むのは見通せなさです。だからこの語で褒められた対象は、細かいと同時に、外から全体を見渡せない。設計図についてこの語を使うとき、称賛の中に「読み解くのに手間がかかる」という含みがわずかに混じるのは、そのせいかもしれません。
布に戻って終わります。織りの目が詰まるほど布は丈夫になりますが、同時に硬くなり、光を通さなくなり、体の線に沿わなくなる。目の詰まった布と、風を通す布は、用途が違うだけで優劣の関係にはありません。文章について「緻密な描写」と言うとき、褒めているのは情報の密度であって、解像度でも正確さでもない。密度を上げれば読者は細部を受け取れますが、行間に手を入れる余地は減ります。どこを詰め、どこを粗く織るかという、布の設計と同じ判断が、原稿の設計にもそのまま残っています。