浴槽に足を入れた瞬間、思っていた温度と違うと分かることがあります。熱いのでも冷たいのでもなく、こちらが期待していた線に届いていない、という判定だけが先に立つ。温度計を持ち込めば三十八度なのか三十九度なのかは決着しますが、そのとき身体が受け取っているのは数値ではなく、届いていないという差のほうです。しかも判定は一方向にしか出ません。期待より熱すぎたときには別の言い方が用意されているのに、下に外れたときの言い方だけが、温度の報告と評価の下しかたを一語で兼ねている。
生煮え、生乾き、生半可、生返事。接頭辞として付いた「生」は、どの語にも「途中で止まっている」という含みを加えます。加熱の途中、乾燥の途中、返事としての体裁が整う途中。温度の形容詞に付いた場合も働きは同じですが、この語だけは、途中で止まっているのが温度なのか、それとも別の何かなのかが、文脈によって入れ替わります。意味の焦点が動く語で、その動き方には規則があります。
出発点は尺度の構造です。温度を表す形容詞を並べると、冷たい、涼しい、暖かい、暑い、熱いと、両端の側は語彙が豊かに用意されている。ところが真ん中は貧しい。尺度形容詞は両極が語彙化されやすく、中間は無標のまま名前を持たないことが多いと言われます。日本語はその中間に名前を与え、しかも負の評価を貼りつけました。ぬるい、はどちらでもない状態を中立に報告する語ではありません。基準に届いていない、という判定を初めから含んでいる。
どの基準かは、語のほうには書かれていません。風呂なら適温、飲み物なら冷えているか熱いか、批評なら想定された厳しさ。基準は文脈が供給します。基準依存の形容詞は、大きい・高いなども同じ性質を持ちますが、この語が特殊なのは、基準からの逸脱が最初から一方向に固定されている点です。大きいは基準より上、小さいは下、と対になっているのに対して、こちらには「基準より熱すぎる」に相当する対応語がない。中間帯という位置と、不足という評価が、一語のなかで癒着しています。
対照言語の側からも同じ形が見えます。英語の lukewarm と tepid は、どちらも中間の温度を指しながら、比喩に回ると熱意の乏しさを表す。冷ややかな反応より、生温い反応のほうが低く響くことすらあります——反対を向いていれば少なくとも姿勢は明確ですが、中間帯にはその明確さがないからです。尺度の真ん中が負へ振れるのは日本語だけの癖ではなく、期待という基準を持ち込んだ瞬間、中間は未達としてしか読めなくなるという事情の現れだと考えられます。両極に名前があり真ん中に名前がないという状態のほうが、言語にとってはむしろ既定値なのでしょう。評価を呼び込んでいるのは、命名という操作そのものだと言えます。接頭辞の側からも同じ力が見えます。生煮え、生乾きに評価が伴うのは、煮上がりや乾き上がりという到達点が最初から想定されているからで、途中という位置は到達点なしには定義できない。温度に付いた場合も事情は変わりません。適温という到達点を思い浮かべた瞬間に、その手前は自動的に未達へ回されます。評価は語そのものに貼られているのではなく、尺度と到達点を同時に持ち込んだ結果として生じている。
反例を探しておきます。「生温い水で洗う」という指示は、評価というより単なる温度の指定に見える。だとすると、不足の評価は語義そのものではなく、頻繁に伴う含みにすぎない可能性が出てきます。この見立てを取ると、多義の構造が説明しやすくなる。中核にあるのは温度尺度の中間帯という記述的な意味で、そこに不足という評価が高頻度で寄り添い、比喩用法ではその評価だけが単独で残って温度を切り離した。生温い批評、生温い処分、と言うときに温度計は要りません。分岐点がどこにあったかが、用例の並べ方で見えてきます。
書く側にとって面倒なのは、この二重性が制御しにくいところです。ある部屋の空気を生温いと書けば、読者は温度と同時に、その場の緊張の緩みまで受け取ります。死体の置かれた部屋なら、受け取られるのは温度ではなく不吉さのほうでしょう。どちらを渡したいのかを決めずに置くと、両方が薄く届いて、どちらの効果も立たない。温度だけを渡したいなら、指の触感や湯気の有無といった物理的な手掛かりを添えて評価の側を打ち消す。評価だけを渡したいなら、温度と無縁の対象に付けて、比喩であることを最初にはっきりさせる。焦点の動く語は、動かす方向を書き手が指定してやる必要があります。