古い新聞の三行広告や、店先の貼り紙には、この動詞が文語の終止形のまま立っています。事務員求む、下宿人求む。名詞をひとつ置いて二文字を添えるだけで、募集の掲示として成立してしまう。主語もなければ、誰に向けて出したのかも書かれていません。それでも読んだ人は、掲げた側が何を欲しがっているかを一瞬で受け取ります。格助詞をすべて省いても意味が崩れないという点で、この動詞は日本語のなかでも丈夫な部類です。裏を返せば、省ける格をあえて書き込んだときには、そのぶん情報が増えるということでもあります。
他動詞としてヲ格の目的語を取ると、意味は目的語の側から決まってきます。回答を求める、責任を求める、愛を求める。前の二つは制度や交渉の場に寄り、最後の一つは内的な状態に寄る。同じ格を使っているのに、行為の完了条件はまるで違います。回答は届いた時点で済みますが、愛のほうには済んだという判定がありません。目的語が抽象になるほど、いつ終わったのかを文の側が言えなくなる。これは語の欠陥ではなく、欲求がもともと境界のぼやけた現象だからです。曖昧なものを文に載せる以上、完了したかどうかは別の一文で補ってやる必要があります。
目的語の席に人が入ると、意味は一段跳びます。「彼に助けを求める」は交渉ですが、「彼を求める」となると、要求ではなく希求のほうへ落ちる。ヲ格に置かれた人間は、何かを渡してくれる相手ではなく、手に入れたい対象そのものになるからです。日本語はこの跳躍を、語彙を替えずに格の操作だけで済ませています。しかも二つの言い方は排他ではありません。助けを乞いながら、その人自身を求めている——同じ場面に矛盾なく重ねられるところが、この動詞の得な点です。
ニ格の用法は、要求の宛先を表に出します。答えを神に求める、援助を相手に求める。宛先がある求めは対人の行為であり、宛先がない求めは探索や内的希求に近い。格の有無で物語のベクトルが変わります。内的な希求と対人的な要求は、別々の語彙に分かれているのではなく、格の配分によって分かれている。同じ一語が両方を担えている理由も、そこにあります。宛先を書かないまま強い欲求だけを重ねると、感情語ばかりが浮いて、経路の見えない文章になる。誰に向かって手が伸びているのかが決まれば、その途中に何を置けば邪魔になるかも決まります。障害物は、経路が引かれたあとでなければ設計できません。
複合の形にも、それぞれ別の職があります。探し求めるは対象の所在が知れないことを前提にし、追い求めるは対象が逃げ続けることを前提にする。前に付く動詞が、欲求を妨げているものの種類を指定しているわけです。並べてみると、欲求のかたちは欲する側の熱ではなく、対象の側の事情で決まっていることが分かります。妙なのは買い求めるで、これだけは意味を足すのではなく、待遇の格を一段上げる働きをしています。買うと言えば済む場面をこう言い換えると、行為が丁重になる。欲求の動詞が、丁寧さの材料として使い回されている例です。
否定の側にも、はっきりした非対称があります。「求めない」は意志による抑制ですが、「求められなかった」は機会や能力の欠如を含みうる。同じ不在でも、物語の因果は別物です。取り違えると、禁欲を選んだ人物が無力に読まれ、力の及ばなかった人物が高潔に読まれてしまう。受身形も同じように働きます。「求められている」と書けば、欲求は本人の外側から降りてくる圧として立ち上がる。時制と態を変えるだけで、同じ語幹が義務にも衝動にもなるわけです。文法の形式が倫理の判定を密輸してしまわないよう、前後の状況で射程を固定しておく必要があります。
実務としては、何を・誰に・どこまで、の三点を構文で配分するとよい。全部を一度に述べる必要はなく、文を分けて格を散らすほうが自然なことも多いはずです。散らすのは冗長さではなく、欲求の経路を目に見えるようにする作業だと考えてください。そのうえで、一場面で本当に運ぶべき目的語は一つに絞る。残りは探す、頼む、願うといった別の動詞へ逃がす。骨格が単純な動詞ほど、目的語の選定が結果のすべてを決めます。三点のうち、書き落とされやすいのは「どこまで」です。どこまで求めるつもりなのかが決まっていない人物は、読者の側で輪郭を結びません。選び違えたとき、文法はどこも間違っていないのに、場面だけが空回りします。