「惨めな勝利」という言い方は成立します。ところが「惨めな成功」になると据わりが悪くなる。「惨めな敗北」は言えますが、こんどは意味が重なって聞こえる。三つの差は、語義の説明をいくら精密にしても出てきません。出てくるのは、この形容動詞がどんな名詞と結べるかという共起の制限を見たときです。勝利は本来ならその逆を含む語で、そこに反対の評価を重ねると落差が生じる。成功にはその落差を作る余地が薄い。語の意味ではなく、語と語の組み合わせが持つ構造の問題です。
連用形の側にも似た傾向が出ます。「惨めに負けた」「惨めに暮らす」は自然に通りますが、「悲しく負けた」「嬉しく暮らす」となると急に据わりが悪い。感情を表す形容詞の連用形は、動作の様態を修飾する位置に入りにくいのです。外から見える有様を指せる語だけが、動作の見え方のほうを修飾できる。程度の表現でも事情は同じで、後ろに続く事態の大きさを測る目盛りとして働きます。惨めなほど痩せた、惨めなくらい静かだった——ここで測られているのは本人の気分ではなく、外から見たときの落差の幅です。目盛りに使えるかどうかは、その語が観察可能な量に結びついているかどうかで決まります。
述語として使うときには、人称の非対称が顔を出します。一人称で「私は惨めだ」と言うのは自然です。三人称で「彼は惨めだった」と書くのも問題なく通ります。しかし二人称に向けると、それはほぼ攻撃になる。ここで比較したいのが感情形容詞のふるまいです。「悲しい」「嬉しい」は一人称が基本で、三人称に使うには「悲しがる」のような形が要ります。内面は本人にしか分からない、という原則が文法に刻まれているのです。この語はその制限をすり抜けます。内面の状態でありながら、同時に外から見える有様でもあるからです。
派生の側を見ると、穴が目につきます。「惨めがる」とは言いません。「惨める」という動詞もない。名詞化は素直に通り、「惨めさ」は自然に使えます。動詞にならず名詞になるという偏りは、この語が過程ではなく状態を指していることの現れだと考えられます。「惨めになる」という変化の言い方は可能ですが、それは「なる」が変化を担っているのであって、語そのものが動きを持つわけではない。使役の形も同じで、「惨めにさせる」なら言えますが、そこで働いているのは「する」のほうであって、語そのものは相変わらず動きません。意志や動作と結びつかないという性質が、活用の非対称として残っています。
形容動詞の語幹が一語のまま立つ点も、書く側には効いてきます。「惨め。」という一語だけの文は、地の文でも会話でも通る。ところが「悲し。」は文語調に響き、「嬉し。」も同じで、現代の散文に落とすには語尾か助詞の助けが要ります。形容動詞の語幹は名詞に近いふるまいをするため、名詞句の位置にも判定の位置にもそのまま立てるわけです。実務上は、一語で段落を切れるということでもある。長い描写の末尾に語幹だけを置けば、それは直前の記述全体に対する判定として読まれます。ただし、一語で下された判定は、下した者の姿を隠してくれません。誰がそこにその一語を置いたのかは、かえってはっきり見えます。しかも一語段落は、置いた回数だけ効き目が落ちる。
格のふるまいにも選択肢の分岐があります。「〜が惨めだ」という主格の形が基本で、「〜にとって惨めだ」はやや言いにくい。代わりによく使われるのが迂言的な言い回しです。「惨めな思いをする」と書けば、主体がその状態を自分の経験として引き受ける形になります。「惨めな目に遭う」だと、外から降ってきたものとして扱われる。「する」と「遭う」の一語で、責任と因果の所在が動く。同じ形容動詞を使いながら、人物が被害者の位置に立つか、当事者の位置に立つかが分かれるわけです。
書く側にとって、この地図はそのまま選択肢の一覧になります。三人称でそのまま述語にできるということは、語り手がその判定を下せる場所にいると読者に告げることでもある——判定の権利は、無料ではありません。視点人物に自分でそう思わせるのか、語り手が外から言い切るのかで、読者と人物の距離が変わります。そして迂言を選べば、その人物が自分の状態をすでに引き受け終わっていることが伝わる。文法にあいた穴と、そこを埋めるために用意された迂回路とが、そのまま語りの設計図になっています。