未練がましい、差し出がましい、恩着せがましい、押しつけがましい、烏滸がましい。この接尾辞を持つ語を並べると、そろって非難の側へ傾いています。……のように見える、……らしく振る舞う、という意味を足す形式で、その「そう見えてしまう」ことがそのまま咎めの根拠になる。並べ終えたところで、一つだけ列から浮く語がある。祝いの場に置かれ、褒め言葉のような顔をしている語です。例外だと処理してしまえば話は終わりますが、例外にしては居心地が悪い。
接尾辞そのものを、近い形式と並べて見ておきます。春めく、大人びる、それらしい——どれも、そのように見える、そのように振る舞う、という様態を作る点では同じ枠に入ります。めく は中立で、季節や気配にそのまま付く。びる は年齢や格に付いて、わずかに評価を帯びる。らしい は肯定寄りで、期待に適っていることを言う。同じ枠にありながら、がましい だけが咎めの側へ落ちている。落ちた理由は、形式そのものより、付いてきた語幹の顔ぶれにありそうです。未練、差し出、恩着せ、押しつけ——語幹の段階で既に人の振る舞いを名指していて、しかもその振る舞いが望まれていない。非難したい場面でばかり選ばれた結果として、形式の側が語幹の色を吸い取った、と読むほうが自然でしょう。
この語は、誇らしい・華やかだ の側と、面映ゆい・気恥ずかしい の側の両方で使われます。辞書もたいてい両方を載せる。相反する二つが同居しているように見えますが、接尾辞の働きを踏まえると別の読みができる。晴れの場に自分が置かれ、そのように見えていることを意識する——その意識が、誇らしさにも居心地の悪さにも転ぶのだと考えれば、二つの意味ではなく一つの構造の二つの出方になる。列から浮いて見えたのは、他の語では咎めに向かった自意識が、この語では場の華やかさに支えられているからにすぎません。
晴れの側も見ておきます。晴れと褻の対比は民俗学の語彙として広く知られています。晴れ着、晴れの舞台、晴れて夫婦になる。晴れは公的で、人目のある時間を指す。だからこの接尾辞と結びついたとき、見られているという自覚が前面に出ざるをえない。同じ感情を担う近い語を見ると、こちらは摩耗が進んでいます。面映ゆい は、もとをたどれば顔が照り映えるという像を持つ語ですが、いま使う人がその像を意識することはまずない。語構成が見えなくなり、意味だけが残る。それに比べると、晴れという語がなお生きて使われているぶん、この語は内部が透けたまま今日まで来ています。
同じ語基から分かれた対を見ると、分業の跡も読めます。晴れやか は、晴れ に やか が付いた形です。やか は、しなやか、和やか、健やか のように、外から眺めた状態の質を描く接尾辞で、当人の自意識までは運びません。だから晴れやかな表情、は素直に読めるのに、この見出し語を表情に掛けると、わずかに据わりが悪くなる。同じ場面を指しながら、片方が外観を、片方が本人の自覚を受け持つ形で分かれたわけです。語基を共有する二語が接尾辞の違いだけで役割を分けるのは、日本語の形容詞群にしばしば見られる整理のされ方でしょう。分かれたあとは、両方が生き残ることもあれば、片方が痩せていくこともある。
通時的な変化については、慎重に言うべきでしょう。近ごろは誇りの側より気恥ずかしさの側で使われることが増えた、という印象を持っていますが、数えたわけではないので印象の域を出ません。より確かに言えるのは、語形の自由度が落ちていることのほうです。晴れがましい席、晴れがましい思い。連体修飾でほぼ固定していて、述語として言い切る用例は目立って少ない。似た偏りは肩身が広い・肩身が狭い にも見えて、経験的には後者ばかりが使われます。対をなす言い方の片方だけが日常語として残るのは珍しいことではなく、語が慣用句へ吸収されていく途中でよく起きる痩せ方です。
使うときの含みは、ここから逆算できます。この語を人物に当てると、その人物が自分の見られ方を意識していることまで書けてしまう。表彰の場面で誇らしいと書けば、感情は本人の内側に閉じる。晴れがましいと書けば、本人は会場の視線を数えている。どちらが正しいということはなく、どちらを書きたいかの申告になる。接尾辞ひとつが視線の有無を運び、非難の一族にいたはずの形式が、ここでは自意識の在処をそっと指し示している。