声に出して拍を数えると五つあります。は・ず・か・し・い。感情を一語で放つには、やや長い部類です。同じ場面に置ける語を並べてみると、四拍のものが少なくない。気まずい、悔しい、心細い(これは六拍)と、数え始めるとすぐ例外が出てくるので、長短の対立をきれいに引くことはできません。ただ、口から出るまでに五拍ぶんの時間がかかるという事実そのものは、どんな例外があっても変わらない。叫ぶには長い。この長さがどこから来たのかを追うと、思っていたより古いところに出ます。
末尾の「しい」は、古典語のシク活用の名残です。形容詞にはク活用とシク活用の二系統があり、前者は高し・白しのように性質を、後者は悲し・恋しのように心のありようを担う傾向がある、という整理は古典文法で広く教えられています。傾向であって規則ではありませんが、現代語で「〜しい」に終わる形容詞を思い浮かべると、確かに情意寄りのものが集まる。つまり語尾のシは、その語が主観の側に属することを示す標識の化石です。長さの一部は、この標識を保存し続けている費用だと言えます。
シク活用の終止形は、語幹に「し」が付いた形でした。はづかし、と言い切る形です。現代の口語でも、決まりが悪い場面で末尾を落として言うことがあり、結果として古典語の終止形と同じ姿になります。歴史がそこでつながっているわけではありません。「い」を落としただけです。それでも、末尾の一拍を外すだけで語が壊れないという事実は残ります。五拍のうち、意味を担う部分と活用を担う部分の切れ目は、四拍目と五拍目のあいだにある。語尾を削っても通じるのは、その継ぎ目を使っているからで、末尾に促音を置いて止める言い方も同じ位置を使います。継ぎ目を用意しているのは語形のほうで——話し手が短くしたいから短くなる、という順序ではありません。
音そのものについては、慎重にならざるを得ません。語中に濁音を含む語は重く鈍い印象になる、という音象徴の議論はありますが、静かにも涼しいにも濁音はある。ここで断定するのは危うい。より確かなのは、この語が末尾でシとイを続けて発音する形をとること、そして歴史的仮名遣いでは「はづかし」と書かれたことです。口の形で言えば、最後は横に引かれたまま終わる。息を強く吐いて終わる語ではありません。勢いよく吐き出すのに向いていない語形なのだと考えると、この語が悲鳴の位置に立ちにくいことは説明がつきます。
現代の口語には三拍の短縮形があります。短くなると軽くなる——そう言いたくなるのですが、ここで一度立ち止まります。短さがそのまま軽さなら、短くて重い語は存在しないはずです。実際には、二拍三拍で相当に強い語がいくつもある。だから短縮が軽さを生むという説明は成り立たない。残るのは別のことです。五拍を最後まで言い切るには、言い切るあいだ自分の状態を差し出し続けなければならない。短縮形が捨てているのは音ではなく、その持続時間のほうだと思われます。
伸びる方向にも動きます。恥ずかしがるは、は・ず・か・し・が・るの六拍。恥ずかしがり屋なら、は・ず・か・し・が・り・やで七拍です。伸びた形が何をしているかというと、感情の持ち主を三人称のほうへ押し出している。「がる」は他人の内面を外から推し量って述べる形式で、自分については使いません。自分の状態を差し出す五拍の形と、他人の様子を報告する六拍の形が、たった一拍の差で隣り合っていることになります。長くなったぶんだけ、話し手は対象から遠ざかる。話者と対象の距離が語の長さに現れる例はほかにもありますが、この語では、その距離が拍という単位で数えられます。接頭辞を付けた「お恥ずかしい」は、お・は・ず・か・し・いで六拍。これは遠ざかるのではなく、改まった場で差し出す時間をもう一拍だけ延ばす形です。同じ一拍の追加が、後ろに付くか前に付くかで、逆の向きに働いている。
書く側にとって、これは台詞の設計に直結します。長い語を最後まで言わせるか、途中で遮るか。言い終えた人物は、その感情を自分のものとして引き受けたことになり、遮られた人物は引き受けそこねる。地の文でも同じで、五拍の形容詞を文末に置くと文のリズムが一度止まります。止めたくない場面では、四拍の語に置き換えるか、体言止めで逃がすか。語の長さは意味の外側にある情報のように見えて、読者の呼吸を通じて意味に戻ってくる。拍を数えるのは、その戻り道を確認する作業です。