古い友人、と書けば付き合いの長い相手のことになります。ところが新しい友人、と書いても、付き合いの短い相手という対称的な意味には落ち着きません。最近できた友人、という別の焦点にずれてしまう。同じ名詞に、対をなすはずの二語を交互に付けただけで、片方は関係の年数を、もう片方は成立の時点を指す。入れ替えれば反対の意味になるはずの二語が、入れ替えた瞬間に別の物差しへ乗り換えている。ここで手が止まりました。
対義語という枠組みは、同じ尺度の両端という前提の上に成り立っています。長い/短いは長さという一本の物差しを共有している。ところが、この形容詞と「古い」は、名詞によって参照する時間軸を取り替えてしまう。古い家は建ってからの経過年数、古い傷は負ってからの経過、古い考えは流通していた時代。名詞ごとに「いつを起点に数えるか」が入れ替わり、そのたびに対義語の側だけが別の意味を拾う。文法の側に穴が空いているというより、この語が名詞の持つ時間構造に寄生していると言ったほうが近い。
述語にしてみると、非対称はさらにはっきりします。その家は古い、は自然に言える。その友人は古い、はほとんど成立しません。連体修飾では通るのに述語では落ちる、という食い違いは、修飾位置のほうが解釈の自由度が高いことを示している。連体修飾は名詞との組で意味を作り直せるが、述語は主語をそのまま量る必要がある——量れないものは量れない。ただし、その付き合いは古い、と主語を関係のほうへ差し替えれば、述語でも通ります。落ちていたのは語ではなく、人という主語が経過年数の目盛りを持っていないことでした。
語形の側にも寄り道があります。この語には「あらた」という別の形が並走していて、片方はイ形容詞、片方はナ形容詞としてふるまう。連用形の分布も揃いません。新しく買った、とは言えるが、新しく決意した、は落ち着かない。新たに決意した、なら通る。前者は物の入手、後者は事の開始に寄る傾向がある、という程度のことですが、同じ語根から出た二形がここまできれいに仕事を分けているのは、それなりに珍しい。古語の形が音の入れ替わりを起こして現在の形になったという説明がよくなされますが、説には幅があり、断定はしないでおきます。
派生の方向にも偏りがあります。真新しい、目新しい。接頭辞を取って強めたり角度を変えたりできるのは、この語の側だけで、真古い、目古い、とは言いません。反対語のほうは逆に後ろへ伸びます。古めかしい、古くさい、古ぼける、古びる。とくに動詞形の有無は決定的で、放っておけば古びることはできても、放っておいて新しくなることはできない。だから「新しくなる」という迂言の形を借りるほかない。時間が一方向にしか流れないという言語の外側の条件が、そのまま派生の可否として文法に刻み込まれています。副詞化の分布も揃いません。古くから伝わる、と言えば起点を指す時間副詞句になりますが、新しくから、という形は作れない。連用形をそのまま起点表現へ流用できるのは、経過の側だけです。
否定形を作ると、穴の位置が見えます。新しくない、は古いと同じではない。両者のあいだには、どちらでもない広い帯がある。三年前に買った鞄は、新しくはないが古くもない。程度形容詞は本来そういう中間帯を持つものですが、この語の場合、中間帯の幅は名詞ごとに伸び縮みする。パンなら数時間、建物なら数十年。尺度名のほうを見ると、帯の存在はさらに露骨です。長い短いには長さという中立の名前があり、高い低いには高さがある。短いものにも長さはあるし、低いものにも高さはある。ところがこの対には、両端を等しく含む名前が立たない。古い建物の新しさ、という言い方は落ち着きません。中立の目盛りが要るときは、築年数のような別系統の名詞を借りてくることになる。物差しの名前が取り出せない対は、そもそも一本の物差しを共有していなかったと考えるほうが自然です。
書くときに効いてくるのはここです。この形容詞を置いた瞬間、読者は「何を起点に数えるか」を名詞から自動的に補います。作者が制度の刷新を書いたつもりでも、名詞が物なら読者は購入の時点を数える。ずれを避けたいなら、形容詞のほうを直すのではなく、時間の起点を名詞の側にあらかじめ埋めておく必要がある。そして起点さえ書けてしまえば、形容詞のほうは不要になることが多い。不要になったと気づいた時点で外すほうが、文はまっすぐ進みます。