うわあ

【うわあ】感動詞

使い分けの視点

うわあは、母音を一拍伸ばしたぶんだけ驚きの量が増して感じられる語です。形式が増えれば内容も増える——この目盛りを動かせるのは、語彙の意味を持たない感動詞だけの特権です。一拍なら息を呑んだ程度、三拍なら我を忘れた程度。ただし目盛りには上限があって、伸ばしすぎた叫びは滑稽へ転がります。読者が真顔でいられる限界を、書き手は母音の数で測っています。

同義語

同品詞の類義語

わあいcolloquial
おお文芸的
ひゃあcolloquial
わっcolloquial

類義句

同品詞の慣用的言い換え

なんてこと
なんと文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

やったあcolloquial
おおーcolloquial
ひゃっほうcolloquial

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

うわああエッセイ関連

例文: うわああ、と三拍ぶん伸ばして書けば、我を忘れた程度の驚きがそのまま紙の上に載る。母音の数が、量の目盛りとして働く。

図像性エッセイ関連

例文: 嬉しいい、悲しいいい、とは書けない。形が固定された語には長さで程度を表す回路がなく、音を写した表記に量の感覚が宿るのは図像性と呼ばれる対応のせいだ。

母音は器より大きい——「うわあ」と図像性

漫画の描き文字では、大きな声は大きな文字で描かれます。長い悲鳴は横に引き伸ばされ、ときにはコマの枠さえはみ出していく。形の量で意味の量を表すこの原理は、しかし絵の世界だけのものではありません。文字の並びにも同じ力が働いています。「うわ」と「うわあ」と「うわああ」。母音を一拍足すごとに、驚きの量が確かに増して感じられる。音を写しただけの表記に、量の感覚が正確に宿っている。形式が増えれば内容も増える——言語学で図像性と呼ばれる、形と意味の対応がここにあります。

言語学は、この種の対応をいくつかの型に整理してきました。ひとつは、いま見た量の対応です。形式が長ければ内容も多い。ふたつめは順序の対応で、出来事の起きた順に節を並べる語り方がこれにあたります。「来た、見た、勝った」を並べ替えると、同じ三つの出来事が別の話になってしまう。みっつめは距離の対応で、意味の上で結びつきの強い要素どうしは形の上でも近くに置かれやすい、という傾向を指します。感嘆の引き延ばしは、このうち量の型のもっとも純粋な標本です。ほかの二つが節や語の配列という大きな単位で働くのに対し、ここでは一拍という最小の単位が、そのまま目盛りの一目になっています。

認知言語学は、こうした対応の背後に身体があると考えます。レイコフとジョンソンが概念メタファーの理論で示したのは、感情や時間のような抽象概念が、容器や液体や上下といった身体的経験の型を借りて理解される、ということでした。日本語の感情表現はその見本市です。喜びは「こみあげ」、感極まれば「あふれる」。感情は、身体という容れ物に満ちてくる液体として語られます。母音を引き延ばした感嘆の声は、この比喩の音声版だと解釈できるでしょう。容れ物の縁を越えて流れ出す分だけ、音が長くなるのです。

「あ」という母音の選択にも身体が関わっています。あは、日本語の五つの母音の中で口の開きが最も大きい音です。驚嘆の瞬間、人はまず息を呑み、それから口が開く。開いた口からは、開いた母音しか出ません。世界を受け止めきれずに身体が開き、その開きが音の開きに、音の開きが心の開きに写像される。三段の対応が、この短い叫びの中に畳み込まれていると考えられます。同じ結びつきは日本語の外にもあって、英語のwowも、口を大きく開く母音を核に持つ間投詞です。言語が違っても身体は同じ形に開くのだから、似た音が選ばれるのは不思議ではありません。逆に、驚きの瞬間に口を手で覆う仕草が広く見られるのは、開いてしまう口というものを身体がよく知っている証拠でもあるでしょう。

音と大きさの結びつきには、もう少し広い背景があります。言語音の印象を調べる実験では、口の開きの大きい母音を含む語のほうが大きなものの名前らしく感じられ、狭い母音を含む語は小さなものの名前らしく感じられる、という傾向が繰り返し報告されてきました。角ばった図形と丸い図形に二つの無意味語を割り当てさせる古典的な課題でも、多くの人が同じ組み合わせを選びます。音と意味のあいだには、辞書のどこにも書かれていない対応が薄く張られている。ふつうの語では、この層は語彙的な意味に覆い隠されています。感嘆の声だけが、覆いを持ちません。意味を運ばない音だからこそ、音そのものの印象が表に出たまま働くわけです。

面白いのは、この引き延ばしが普通の単語には許されないことです。「嬉しいい」「悲しいいい」とは書けない。語彙的な意味を運ぶ語は形が固定されていて、長さで程度を表す回路を持ちません。感動詞だけが、連続量を連続量のまま表記できる。離散的な文字体系の中に残された、ほとんど唯一のアナログ目盛りです。だから書き手は、母音の数を計量カップのように使えます。一拍なら息を呑んだ程度、三拍なら我を忘れた程度。離散な文字で刻んだ目盛りは、読者の内耳でなめらかな長さに変換されます。離散から連続へ、書記と音声のあいだで起きる、ささやかな翻訳です。

ただし、この目盛りには上限があります。伸ばしすぎた叫びは滑稽へ転がり、感嘆は笑いに変質する。誇張が一線を越えたところで図像性はパロディに変わる、ということも、漫画がとうの昔に発見していた事実でした。ページの上で声を伸ばすとき、書き手が実際に測っているのは、人物の出した音量ではありません。読者が真顔のままでいられる、その限界のほうです。

文: hakadoru.ai 編集部

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