予算を別の事業へ振り向ける、という言い方があります。人員の再配置にも使う。この言い回しの中に、首を回すあの動詞と同じ語幹が居座っていることに気づくと、少し足が止まります。予算には首がないし、誰かの顔を見ることもない。それでも語形はそっくり同じで、しかも比喩として気取ったところがまるでない。日常の事務書類の中に、身体の動作が化石のように埋まっている。
「振り」はもともと、腕や体を勢いよく動かす「振る」の連用形です。振り仰ぐ、振り切る、振り絞る、振り分ける、振り出す。並べてみると、意味の重心はどれも後ろの動詞のほうにあって、前半は勢いや急激さを添えるだけの部品に近づいています。語形は残っているのに、それが担っていた具体的な動作の像は薄まっていく。通時的な変化としてはありふれた現象で、摩耗と呼ばれる部類に入ります。では同じ摩耗がこの語にも及んだのか。ここで引っかかります。振り仰ぐの「振り」は、外してもさほど損なわれない。ところが首の場合、外すと明らかに何かが落ちます。「向いた」では、そちらを向いている状態しか言えない。前半が付くと、直前まで背を向けていたという前提と、その姿勢が壊れる速さとが、一語のうちに畳み込まれる。摩耗を免れたというより、後半の動詞が状態しか表さないぶん、行き場を失いかけた前半がそこで働き口を見つけた——そう考えたほうが辻褄が合います。
同じ前半を持つ語をもう一つ並べると、事情がさらに見えます。振り返る。後半の「返る」はもとの位置へ戻る動きを含んでいて、この語は早い段階から時間の方向へ抜けました。半生を振り返る、一年を振り返る、失敗を振り返る。過去を目的語に取れます。ところが首の側の語には、どれだけ探しても回顧の用法がない。昨年を振り向く、とは言えません。前半が共通で後半だけが違う二語が、片方は過去へ、片方は現在の空間へと、別々の坂を下りていったことになります。摩耗は語形の側で起きる現象ですが、意味がどちらへ流れるかを決めているのは、複合の後半に置かれた動詞のほうです。
その証拠と言えるかどうかは分かりませんが、この語は「ざま」という接尾辞をよく取ります。振り向きざま。ある動作が完了する瞬間にもう一つの動作を重ねる形式で、これは動詞の側に明確な切れ目がないと成立しません。すれ違いざま、抜きざま。仲間を並べると、どれも一瞬で終わる動作ばかりで、継続する動きは入り込めない。歩きざま、とは言いにくい。歩行には切れ目がないからで、切れ目のない動作には、別の動作を重ねる位置が指定できません。時間を前と後ろに割る性質を持っていたからこそ、この語は接尾辞のほうから選ばれた。
冒頭の事務用語へ戻ります。厳密に言えば、予算のほうは「振り向ける」という他動詞で、首の側は主語自身が回る自動詞です。自他の対を持つ動詞は日本語にいくらでもありますが、この対では、自動詞が身体に留まったまま、他動詞の側だけが資源配分の語彙へ出ていきました。人手を振り向ける、資材を振り向ける。目的語に立つのは、量として数えられ、複数の使い道のあいだで奪い合いになるものばかりです。そして自動詞の側にも、その含みは薄く流れ込んでいる。回転は一度に一方向しか選べません。有限のものを配るという構図は、抽象へ移る前から身体の動きに備わっていたことになります。
意味はもう一方向へも伸びました。「あの人は振り向いてくれない」と言うとき、頸椎の回転はもう問題になっていません。関心が自分の側へ割り当てられるかどうかが問題になっている。身体の向きから注意の向きへ。注意を有限の量として扱い、それをどこへ配るかを語る言い方は、日本語に限らず広く見られます。そう並べると、冒頭の予算の話は同音の偶然ではなく、同じ坂を最後まで下りきった地点だということになる。ただし、どちらの用法が先に定着したのかまでは、手元の材料では決められません。
書く側にとって使えるのは、この語が時間を二つに割る道具だという点です。回った後の視界は書きやすい。難しいのはその手前で、直前まで何を見ていたか、なぜ視線を外していたかを決めないまま回すと、動作だけが宙に浮きます。速さを書き込めば緊張が出ると考えたくなりますが、速さは比較の対象があってはじめて計れるもので、比較の対象になるのは回る前の姿勢しかない。摩耗を拒んだ前半部分が守り続けてきたのは、まさにその「手前」でした。