「ふと」と「ふっと」。仮名にして一字、小さな促音が挟まるだけの違いですが、この二語は同じようには使えません。「ふと思い出す」は自然でも、「ふと消える」はどこか収まりが悪い。逆に「ふっと消える」は決まるのに、「ふっと思い出す」は少しだけ演出過剰に感じられる。この非対称を、感覚の側からではなく、数える側から確かめる方法があります。共起——ある語の隣にどんな語が来やすいかの統計です。
現代語の均衡コーパスや自作原稿の全文検索で後続の動詞を集めてみると、経験的にはっきりした偏りが観察できます。促音のない側の後ろには、思う、気づく、思い出す、目をやる——認知や知覚の動詞が並ぶ。促音のある側の後ろには、消える、笑う、緩む、途切れる——物理的な出来事や表情の動きが混ざってくる。促音の一拍は、吹き消す息の破裂を写しているのだと考えられます。蝋燭を消すあの短い息が語形に残っているのなら、灯や気配の「消える」と結びつきやすいのは筋が通っている。語の内側の一文字が、隣に立てる語を選んでいるわけです。
ただし、生の件数をそのまま並べても偏りは見えにくい。「思う」も「見る」も、どんな副詞の隣にも現れる高頻度の動詞だからです。件数の多い組み合わせが、そのまま結びつきの強い組み合わせだとは限らない。計量の側では、二つの語がたがいに無関係に分布していた場合に期待される共起数を先に計算し、実測値がそこからどれだけ離れているかで結びつきの強さを測ります。この処理を挟むと、頻度の高さに由来する見かけの偏りが落ちて、語形の差に由来する偏りだけが残る。もっとも、この種の指標には弱点もあります。双方が稀な組み合わせでは値が跳ね上がりやすい。促音入りのほうはもともと出現数が少ないので、上位に並んだ動詞を鵜呑みにせず、実例を目で確かめる工程が要ります。
ジャンルの内訳を見ると、もう一つの分かれ方が出てきます。均衡を目指して編まれたコーパスは、書籍や新聞のほかに、白書や会議録、ウェブ上の書き込みまで含みます。促音のない側は、その広い範囲にわたって顔を出す。随筆にも、新聞のコラムにも、日常の書き込みにも混じっている。促音の入った側は、経験的には小説と随筆の側へ寄っていて、事務的な文章の中ではまず見かけません。意味の近い二語が、頻度だけでなく文体の分布でも分かれているわけです。促音の一拍は、瞬間性を足すと同時に、文章の格を一段だけ文芸の側へ引っぱっている。書き手が無意識に使い分けているのは、意味の差より先に、この所属の差なのかもしれません。実務の文書に置くと妙に気取って見えるのは、語義そのものよりも、その語が普段どの棚に置かれているかに由来します。
頻度の側から見ると、別の景色も見えます。「ふと」は、日本語の副詞のなかでも使用頻度がかなり高い側にいる語です。そして高頻度であることの代償として、読者の目を素通りしていく。手垢と呼ばれている現象の実体は、頻度の高さそのものです。促音入りの側は低頻度のぶん、一回ごとの効き目がまだ残っています。ただし一作の中で繰り返せば、その作品内での局所的な頻度が上がり、同じ摩耗が小さな規模で再演される。効き目は語に宿るのではなく、頻度との差に宿る。
もうひとつ、出現の仕方にも癖があります。この種の副詞は原稿全体に均等に散らばるのではなく、経験的には、特定の章や特定の数頁に固まって出ます。執筆時の呼吸や気分が語の選択を引きずるためでしょう。均等に散った十回より、二頁に固まった三回のほうが読者には目立つ。つまり点検すべきは総数だけでなく、間隔です。全文検索のヒット位置を眺め、密集地帯だけを重点的に散らします。総量規制より、分布の平準化のほうが効きます。
だから実務としての結論は、辞書ではなく検索に向かいます。書き上げた原稿を「ふと」で検索し、件数と位置を眺める。十万字の長編で何十件と出るなら、その多くは惰性で置かれた一語です。認知の動詞が続く箇所だけを残し、出来事の動詞が続く箇所は促音入りに差し替えるか、副詞ごと削る。共起の偏りは母語話者の直感にすでに埋まっているので、一件ごとの判断は一瞬で付きます。検索はただ、直感を呼び出すべき場所を教えてくれるだけです。数えることは、書くことの反対ではありません。数えた結果を直感に返してやると、次に書くときの直感のほうが賢くなっています。