「汗が滲む」は自然に言える。「汗を滲む」は言えない。ここまでなら自動詞の話で終わります。ところが「インクが滲む」の隣に「紙が滲む」を置いてみると、話が急に単純でなくなる。同じ動詞が、広がっていく液体と、広がられている面と、両方を主語に取っている。しかも「額が滲む」は据わりが悪い。面なら何でも主語に立てるわけではないらしい。この交替を許す条件を言葉にしようとすると、手が止まります。紙は染みを保持し続けるが、額の汗は流れ落ちてしまうから——そう説明したくなるものの、それが本当に文法の条件なのか、単に世界の側の事情なのか、切り分ける手立てが思いつきません。
同じ生理現象を指す言い方を並べてみると、主語の席の配り方が語ごとに違うことが分かります。「汗をかく」は人を主語に立てて汗を目的語に置く。「汗が出る」「汗が浮く」「汗が滲む」は液体を主語に立てて人を背景へ送る。そして「汗ばむ」だけは、人を主語に立てたまま目的語を取りません。彼は汗ばんでいた、とは言えても、彼は汗を汗ばんだ、とは言えない。四つの言い方が、同じ皮膚の上の出来事について、主語の席を三通りに配っていることになります。日本語ではこの種の重複した用意が珍しくなく、腹が減ると空腹だのように、どこに主語を立てるかだけが違う組が体系のあちこちにあります。書き手が持たされているのは、事実の選択ではなく席の割り当てです。どの言い方を選んでも、皮膚の上で起きたことは一つきりです。
複合の側に目を移すと、少し足場ができます。「滲み出る」は前項の様態動詞と後項の「出る」が組み合わさった形で、「流れ出る」「湧き出る」「溢れ出る」と並べれば、後項が一貫して内から外への通過を担っていることが見えてきます。前項が広がり方を、後項が経路を受け持つ分業です。ということは、この複合形を選んだ時点で、書き手は文に「内側があること」を持ち込んでいる。皮膚の下という空間が、明示されないまま前提として立ち上がる。単に「汗が浮いた」と書く場合には、この内側は呼び出されません。
連体修飾でも似た制約が働きます。「滲み出る汗」は、修飾節の主語がそのまま主名詞になっている型です。同じ要領で「滲み出る額」を作ろうとすると失敗する。「汗が滲み出る額」なら通るのに、そこから「汗が」を抜いて主名詞に立てることはできない。節の項であるものだけが昇格でき、場所を表す成分は昇格できないからです。統語の教科書に載る規則ですが、書く側から眺めると、この規則は視線の置き場を決めている装置に見えてきます。額を主役にしたければ、額を項として扱う別の動詞を探すしかない。
そして「汗をかく」との対比。生理現象としては同じことなのに、「彼は汗をかいていた」では人物が主語に立ち、随意的な行為とほとんど同じ形式に押し込まれます。一方「彼の額に汗が滲み出た」では、人物は「彼の額に」という場所へ格下げされ、出来事の主役は液体になる。ここが引っかかる——格の配り方の選択が、そのまま視点の選択になっている。文法上の交替のはずのものが、カメラの位置を動かしてしまう。
もっとも、選べる席は二つきりではありません。日本語には「彼は額に汗が滲み出ていた」のように、人物を主題として文頭に置いたまま、部分と液体を後ろで組み立てる型があります。象は鼻が長い、の並びと同じ作りです。この型を使うと、人物は場所へ格下げされずに文の先頭に残り、それでいて出来事そのものは液体の側で起きる。距離を取りながら人物を手放さない、中間の位置が確保できるわけです。三人称の語りで人物への寄りを保ちたいときに効くのは、たいていこの型でした。席が二つしかないと思っているあいだは、遠いか近いかの二択で悩むことになります。主題の席は格の枠の外側にあるので、格の配り方をどう決めても、そこだけは別に押さえておける。
だから内面から書いている場面でこの形を挟むと、語りが一瞬だけ人物の外へ出ます。反論はできます。三人称の語りなら外から見て当然だ、と。ただ、外からの形式には別の見返りがある。汗を主語に立てるということは、人物が自分の身体を制御できていないと示すことでもある。制御の喪失を書きたい場面でなら、遠ざかる代わりに不随意性が手に入る。この語は視点距離と不随意性を交換する取引をしていて、どちらを買っているのかを承知しているかどうかで、置き場所が変わります。