話し言葉の中で、この動詞が出てくる場面はあまり思い当たりません。友人の様子を伝えるときには「うーうー言ってた」と言う。ところが文章では普通に使われますし、読んでいて古めかしいとも感じない。会話には出にくく書き言葉には頻出する語は意外に多く、この語もその一つです。堅苦しいからだ、と説明したくなる。ただ、同じ和語で同じく身体の様子を言う「震える」や「うずくまる」は、会話にも普通に出てきます。堅さの目盛りでは、この偏りは測れません。
なぜ会話に出にくいのかを考えると、単に堅いからでは済まない事情が見えてきます。この動詞は、当人には使いにくい。苦痛の最中にいる人が、自分の発している音を苦悶の声だと分類することはできないからです。分類しているのは、外から見ている誰か。医療や記録の文脈でこの系統の語が使われやすいのも、観察者の位置が制度としてあらかじめ確保されているからでしょう。日常会話で観察者の口調を使うと、相手を症例のように扱う感じが出てしまう。堅さの断層ではなく、話し手と観察者の断層だと言ったほうが正確です。
表記の側にも、この断層は現れます。この動詞に当てられる漢字は常用漢字表に入っておらず、表記の基準を揃えている媒体では仮名で書かれます。同じ語が、紙面によって漢字の姿と仮名の姿を使い分けているわけです。そして二つの姿は同じ重さで読まれません。漢字で組めば、字そのものが日常の外から来た印になり、観察者の語彙という性格が前へ出る。仮名で開けば、和語の手触りが戻ってきて、音を写しているだけの語に近づきます。意味も活用も変わらないのに、位相だけが表記で切り替わる。一つの作品のなかで両方を混ぜると、視点の高さが行ごとに上下することになります。
待遇表現との相性も、同じところから説明できます。目上の人物について「呻いていらっしゃった」と書くと、敬語の形は整っているのに落ち着きません。敬意は相手を高い位置に置く操作ですが、この動詞は相手を観察の対象として下に置く操作を含んでいる。二つが同じ述語の中でぶつかります。同じ場面でも「苦しそうにしておられた」と書けば摩擦は消える。分類をやめて、推量に切り替えているからです。誰について書けるかが、語ごとにあらかじめ決まっている——待遇の体系のほうが、この語の観察者性を裏から証明していることになります。年少の者や見知らぬ者について書くときに抵抗が生じないのも、同じ理屈で説明が付きます。
隣接する擬音の側には、また別の層があります。痛みの発声は生理的な現象ですが、その表記は文化と類型に属している。日本語の物語で使われる短い音の書き分けは、それぞれ担当する人物像がかなりはっきりしていて、どれを選ぶかで年齢も立場も気質も動いてしまう。同じ怪我をした同じ人物でも、書かれた一音が変われば読者の作る像が変わる。仮名一字の差が、人物の所属を先に告げてしまうわけです。書き分けの負担が、単語ではなく音の写しの側にかかっている。英語では動詞の側が細かく分かれると言われますから、分割線の引かれる位置が言語によって違うことにもなります。同じ痛みを書く場面でも、書き手が実際に選んでいるのは、音を写す型のほうでした。
ここで、日本語は擬音が豊かだ、とまとめたくなるのですが、それをすると大事なところが落ちます。豊かさの問題ではなく、視点の問題だからです。動詞で書けば、その音は観察者によって分類されたものとして提示される。擬音で書けば、分類される前の音がそのまま置かれる。前者は人物の外に、後者は人物の内側に近いところに、読者を立たせます。どちらが優れているという話ではなく、カメラの位置が変わるだけです。両方を重ねて書くと位置が二つになり、読者はどちらから見ればよいか分からなくなる。二重写しになった位置は、たいてい読者に気づかれないまま効いてきます。
だから一人称の語りでこの動詞を使うと、静かな効果が生まれます。苦痛の最中にいる人物が自分の声を外から分類しているのですから、その語り手は、痛みと同時に自分を観察していることになる。年月を隔てた回想なら自然に収まり、現在進行の切迫した場面では違和が出る。違和を狙って使う手もありますし、避けたければ音そのものか、喉と背の筋肉の動きへ振ればいい。観察の語彙をまたぐ語は、たいてい視点の位置を一緒に運んできます。語彙の選択に見えて、実際に決めているのはどこから見ているかのほうです。