ある副詞がどんな動詞と結びつくかを数えてみようとして、最初の一歩で手が止まりました。集計の単位が決まらないのです。形態素解析にかければ、この語は一語の副詞として切り出されることもあれば、形容動詞の連用形として二つに割られることもある。どちらの処理を選ぶかで、集計表は別物になります。さらに、隣接する二語だけを数えるのか、文の中に共起していれば距離を問わず数えるのか、という窓幅の問題が続く。「冷ややかに、しかし丁寧に断った」のような例は、窓を狭くすれば消え、広くすれば残ります。単位と窓を決めた時点で、結論の半分はもう決まっている。計量は客観的な作業に見えて、入口に主観の関門が二つ置かれています。
それでも、粗く眺めるだけで偏りははっきりします。この副詞が付く動詞は、言う、笑う、見る、応じる、聞き流す、言い放つ——他者に向かう発話と視線の動詞に集まります。走る、眠る、煮る、といった動詞には付かない。付けても文法違反にはなりませんが、読者は意味を復元できない。語の出現頻度が順位に対して急激に落ちることはジップの法則として知られていますが、共起相手の分布も似た形をしていて、上位のごく少数が大半を占め、長い裾が続きます。裾のほうにある珍しい組み合わせが、そのまま新鮮な表現になるかというと、そうとも限りません。裾には、単に誰も選ばなかっただけの、機能しない組み合わせも大量に混ざっています。
ここで引っかかります。共起相手が狭い語は意味が狭い、と言いたくなる。しかしそれは逆向きの例で崩れます。「とても」は膨大な語と結びつきますが、意味の中身はほとんどありません。共起の広さと意味の濃さは比例していない。むしろ、結びつく相手が数えるほどしかない語は、その狭さ自体が意味の輪郭になっている、と考えたほうが観察に合います。この副詞の共起表は、辞書の語釈をもう一度書き直したものに近い。語釈が抽象語で説明しようとしたものを、共起表は実例の集合として名指ししているだけです。
もう一段、自分の観察に異議を出しておきます。対人的な動詞にしか付かないと書きましたが、「冷ややかに光る」は成り立ちます。金属でも月でもよい。人ではない。とすると対人限定という整理は誤りです。ただし、光る場合でも、その光を見ている誰かが文の外側に必ずいる。誰も見ていない場所で物が冷ややかに光ることはできません。共起表が映していたのは動詞の意味分類ではなく、観察者の存在という場面の条件だった——そう読み替えると、両方の例が同じ棚に収まります。数え上げが分類を与えてくれるのではなく、分類の仮説を立て直す材料をくれる、という順序です。
実作に引き寄せると、使い道は二つに分かれます。第一に、この副詞を置いた瞬間、読者は無意識に「見ている側」と「見られている側」を探し始めます。だから視点人物を先に確定させておかないと、読者の目が宙に浮く。三人称の広い視点で使うと、誰の評価なのかが宙づりになり、語り手が人物を裁いているように読まれることもあります。第二に、頻度の高い組み合わせほど摩耗しています。集計表の上位数件は、そのまま避けるべき候補のリストとして読める。数え上げが教えてくれるのは、使うべき言葉よりも、すでに誰かが使い切った言葉です。