ようは

【ようは】接続詞

使い分けの視点

「つまり」は直前の言い換え、「結局は」は過程を経た最終評価です。「簡単に言えば」「ざっくり言うと」は精度を落として短くし、「煎じ詰めると」「詮ずるところ」は多くの要素から核心を抽出します。「結論を言えば」は答えを明示し、「言ってしまえば」は躊躇を越え、「まあなんていうか」は要約に迷う口調です。

同義語

同品詞の類義語

つまり
結局は
簡単に言えばcolloquial
煎じ詰めると文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

詮ずるところ文芸的
結論を言えば
ざっくり言うとcolloquial

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

畢竟するに文芸的
言ってしまえば
まあなんていうかcolloquial

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

口癖を回数で人物化するエッセイ関連

例文: 同じまとめ語を三度だけ言わせ、口癖を回数で人物化して四度目を読者の予測へ任せた。

文頭に張りつく語——検索結果が映す「ようは」の生態

コーパス検索の画面で語を引くと、検索語を真ん中の列に置き、その前後の文脈を左右に並べた一覧が返ってきます。KWICと呼ばれる表示形式です。この画面で「要は」を引いたときの光景は独特で、左の列には句点と改行ばかりが並びます。つまりこの語は、文の頭に張りついて生きているわけです。接続の語だから当然といえば当然ですが、同類の「つまり」や「結局」が文中にもそれなりに収まるのと較べても、文頭への偏りは目立ちます。分布の偏りは辞書の語釈には書かれない情報で、コーパスをのぞく面白さの大半は、こういう語の生態のほうにあります。

表記でも興味深いことが起きます。漢字の「要は」で引くか、かなの「ようは」で引くかで、出てくる文章の種類が変わります。経験的には、かな書きは話し言葉の書き起こしや、くだけたウェブの文章に寄ります。同じ語を調べているのに、表記が位相のフィルタとして働き、硬い文章と柔らかい文章をより分けてしまうのです。書き手にとって、これは使える偏りでしょう。会話文でかなに開けば人物の口調は一段くだけ、地の文で漢字に締めれば論説の顔になります。かなの開き方は、読点の打ち方と並んで、文章の体温を細かく調整するつまみのひとつです。

中身に目を移すと、この語の看板と実態のずれが見えてきます。本来は要約の予告です。ここから先は短くまとめる、という宣言にほかなりません。ところが実際の会話でこの語の後ろに続く発話を観察すると、少しも短くなっていないことが珍しくありません。予告だけが繰り返され、要約はいつまでも届かない。頻繁に使う話者ほどその傾向が強まる、というのが経験的な印象です。話し手の頭のなかでは要約がすでに完了していて、まとまった気分だけが先に言葉になるのでしょう。使われるほど中身が薄れていく現象は文法化の研究で意味の漂白と呼ばれ、挨拶になった「ありがとう」が感謝の実感を伴わずに言えるのと同じ道筋を、この語も歩んでいるように見えます。

選択の幅という観点も挙げておきます。話の切れ目でまとめを予告する表現は、種類がそれほど多くありません。しかも一人の話者が実際に使うのは、そのうちの一つか二つに固まりがちです。だからこそ、どれを選ぶかが話し手の指紋になります。「つまり」で畳む人と「結局」で畳む人と「要は」で畳む人は、同じ内容を話していても別の人間に見えます。選択肢が少ない領域ほど、選択は雄弁になるわけです。コーパスの集計は個人を特定しませんが、小説の会話はその逆で、わずか数行の分布から人格を組み上げる作業になります。

人物の口癖を書くときに大事なのは、種類より頻度です。会話文で同じまとめ語を三回使えば読者は確実に気づき、四回目からはその人物の声で勝手に再生されはじめます。使用を一回に絞れば理知的な省略に見え、五回に増やせば空回りする饒舌に変わる——頻度の調整だけで、頭の回転や誠実さの印象まで動くのです。口癖は説明するものではなく、分布で示すもの。コーパスが教えてくれるのは語の意味ではなく語の癖であり、そして癖こそが、小説では声になります。

文: hakadoru.ai 編集部

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