後ろに来る動詞を思い浮かべるだけ並べてみます。見える、聞こえる、覚えている、言う、断る、区別する、しない。ここで手が止まりました。知覚の動詞と発話の動詞が、同じ副詞の後ろに同じ資格で並んでいる。この二つの領域は、ふつう同じ修飾語を共有しません。よく見えることと、明言することは、別の事柄のはずです。それでもこの副詞は両方に掛かる。
計量的な語彙研究では、語の頻度と意味の広さのあいだに緩い関係があることが繰り返し観察されてきました。使われる回数の多い語ほど、共起できる相手が多く、意味は一般的になる。ただ、書く側にとって地味に効いてくるのは、上位に居座る語ほど個別の輪郭を持たない、という側面のほうです。頻度は語の勝利のように見えて——実際には意味の摩耗と表裏になっている。この副詞は、少なくとも書き言葉では、その上位に相当近い場所にいるはずです。
ここでひとつ、自分の観察を疑っておきたい。摩耗しているなら、この語は使い物にならないことになりますが、そうは思えない場面がある。否定形にしたときです。「はっきりしない」は、曖昧さの名前として明確に機能している。天候にも、態度にも、記憶にも掛かって、しかもそれぞれで何が欠けているのかが伝わる。肯定形が広く薄いのに、否定形は情報を持っている。この非対称は、摩耗という一語では説明できません。おそらく、輪郭が出るのは輪郭の欠如を名指したときだけなのでしょう。あるべき明晰さが来なかった、という不在の指摘には、内容が宿る。
共起を眺めていて、もうひとつ気になったことがあります。末尾の助詞が付く形と付かない形が、ほぼ同じ意味のまま併存している点です。付かない形は話し言葉に多く、付く形は書き言葉に寄る、という程度の差だと説明されることが多い。ただ、書き手の実感としては、差はもう少し物理的です。助詞がひとつ増えれば拍がひとつ増え、直後の動詞までの距離が延びる。修飾する語と修飾される語のあいだに一拍の間が入るぶん、宣言としての重みが増す。同じ意味の二つの形が残り続けているのは、どちらかが優れているからではなく、文のリズムの都合で使い分けられているからでしょう。
もう少し踏み込むと、副詞そのものが自分の意味を実演していない、という事情が見えてきます。この語を文に入れても、読者の側に像は結ばれません。像を結ばせるのは、輪郭の中身のほう——色、境界、数、位置です。副詞は、書き手がこれから明晰なものを提示しますという宣言であって、明晰さ自体ではない。宣言だけが置かれて中身が来ない文が、原稿の中に案外多く残ります。人の顔がはっきりと見えた、と書いた次の行に、その顔について何も書かれていない、という形で。
だから、描写の推敲でこの語に出会ったときは、消すか、支払うかの二択になります。消せば文は短くなり、たいてい失われるものはありません。支払うなら、宣言の後ろに具体を置く。眉のかたち、逆光の縁取り、距離にして何歩か。共起の広さは、この副詞がどこにでも入れることを意味しますが、どこにでも入れる語は、どこにも根を張らない。原稿の中でこの語が多いと感じたら、頻度そのものより、宣言と支払いの収支が合っているかを数えてみるほうが早い。