雨がぽつぽつと降る、とは書けます。ところが、雨がぽつぽつと止む、はどうにも据わりが悪い。同じ雨、同じ副詞、動詞だけが入れ替わっただけなのに、片方は通り、片方は通らない。意味の問題として片づけたくなりますが、それだと説明した気になるだけで何も言っていません。据わりの悪さの正体を、動詞の側の性質として取り出せないか。そこから考え始めると、この副詞が要求しているものの輪郭が少しずつ見えてきます。
降るという事象は、内部に細かい単位を持っています。雨粒が一つ落ち、また一つ落ちる。全体としては連続でも、分解すれば点的な出来事の集合です。止むという事象には、その内部構造がありません。降っている状態から降っていない状態への一回きりの移行であって、途中に数えられる単位がない。この副詞は、数えられる単位の並びに対して、その並び方が疎であることを述べます。数える対象が最初からなければ、述べようがない。共起の制限は、副詞の意味というより、副詞が動詞に課す構造的な要求として記述できるわけです。
近い擬音語・擬態語を並べてみると、輪郭はもう少し正確に出ます。しとしと、ざあざあ、と降る雨は、耳を澄ましても粒には分解できません。前者は連続した湿り、後者は連続した水音で、どちらも量を述べる語です。事実この二つは、雨以外の主語をほとんど取りません。人がしとしとと集まることはなく、ざあざあと話す人もいない。点の列を述べる語のほうは、雨でも人でも発話でも受け持てます。素材ではなく配置を述べているので、素材を入れ替えても壊れないわけです。ぱらぱらも点の列を述べますが、落ちてくるものに軽く乾いた質感を要求します。粉、雪、めくられるページ。発話に添えると据わりが悪くなるのは、そのぶん素材の指定が残っているからでしょう。量の語と数の語の差は、比喩へ伸びるときにも残ります。連続量の側は勢いや持続のほうへ、点の列の側は途切れと間のほうへ広がっていく。
同じ制限は他の場面でも顔を出します。人がぽつぽつと集まる、は自然ですが、そのとき主語は複数でなければなりません。一人しか来ないなら使えない。ところが、ぽつぽつと話す、では話し手は一人で構わない。この非対称はどう扱えばよいのか——一瞬、二つの用法は別語だと言いたくなります。しかし、数えている対象を見れば揃います。集まる場合は人が数の単位で、話す場合は発話が数の単位です。どちらも、点の列が疎に並んでいる。単位が主語の側にあるか、述語の側にあるかが違うだけで、副詞が要求する図式は一つで足ります。
並ぶ軸のほうも限定されていません。夜の斜面に明かりが疎らに見える情景、畑のあいだに納屋が点在する景色、名簿の空欄の散り方。いずれも同じ副詞で受けられますが、疎らなのは時間ではなく空間です。継起の疎らさと配置の疎らさを一語で兼ねられるのは、要求されているのが数えられる単位の存在だけで、その単位が何の軸に沿って並ぶかまでは問われないからでしょう。存在や知覚を表す動詞とも組めることが、その傍証になります。単位が一つしかない場合はやはり弾かれます。玄関の明かりが一つだけ灯っている情景をこの副詞で受けることはできない。疎らという述語は、少なくとも二つの点と、そのあいだの間隔を必要とするからです。動作動詞に限られないのに、止むだけが通らない。効いているのは品詞でも意味分野でもなく、内部に単位を持つかどうかという一点です。
助詞の有無も気になります。この語は「と」を伴っても伴わなくても副詞として働きます。日本語の擬態語には、この点で三つの型があると言われます。「と」を必須とするもの、任意とするもの、そもそも取らないもの。任意型では、「と」があるほうが述語からやや離れ、文の中で独立した修飾成分として立ちます。声に出すと、そこで一拍置ける。逆に「と」を落とすと述語に密着し、副詞と動詞がひとかたまりになります。文体の選択に見えるものが、実は統語的な結合の強さの選択になっている。
だから会話の場面でこの副詞を地の文に添えるときは、後続の設計まで含めて決まってしまいます。語り出したと書いた以上、読者は数えられる複数の発話が疎に並ぶのを待ちます。一言だけで終わらせるなら、この副詞ではない別の語が要る。逆に、間を置いた短い台詞を三つ四つ続ける腹があるなら、この一語がその形式を予告してくれる。副詞が動詞に構造を要求するように、地の文の副詞は、その先に続く数行の形を読者に約束しているのです。