というのも

【というのも】接続詞

使い分けの視点

結論の後から根拠を足すなら「なぜなら」「その理由は」、会話的に弁明するなら「だって」「なんでかっていうと」が自然です。「なんとなれば」「けだし」「ゆえに」は高い文体を作り、「理由としては」「理由を言えば」は分析的です。先に断定した人物の自信や迷いが、後置する理由の長さに表れます。

同義語

同品詞の類義語

なぜなら
なんとなれば文芸的
理由としては
だってcolloquial

類義句

同品詞の慣用的言い換え

けだし文芸的
その理由は
わけはcolloquial

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

ゆえに文芸的
理由を言えば
なんでかっていうとcolloquial

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

弁明エッセイ関連

例文: 船長の弁明は事故の説明から始まり、最後には自分だけ脱出しなかった理由へたどり着いた。

後からエッセイ関連

例文: 勇者は城を救うと宣言し、怖くて逃げたいという本音を後から仲間へ打ち明けた。

言い切ってから弁明する——後置される理由の来歴

宿題を出していないと分かったとき、子どもが最初に言うのは理由ではありません。まず「やってない」が出て、そのあとから「だって、プリントを学校に置いてきた」が追いかけてくる。この順番を誰かに教わった覚えのある人はいないでしょうが、それでも早い時期に身につきます。話し言葉では、結論を先に置いて根拠を後ろへ回すことが、ほとんど労なくできてしまう。ところが書き言葉のほうが同じ順序を素直に許すようになったのは、それほど古い話ではありません。

明治期の論説文を開くと、理由を導く位置に「蓋し」「何となれば」といった語が並んでいます。漢文訓読の読み下しが、そのまま書き言葉の骨として使われていた時代の語彙です。声に出してみると、いまの日本語より一段高いところから響く。書き手が読者と同じ地面に立っていない音がする。理由を述べるという行為が、当時の書き言葉では上から降ろされるものとして扱われていた、と言ってもいいかもしれません。説明とは、対等な相手にするものではなかった。

地の文が話し言葉へ近づいていく過程で、この位置にも置き換えが起きます。よく語られるのは文末の変化ですが、変わったのは文末だけではありません。接続の語彙も、訓読体の重さを引きずったままでは新しい地の文に乗らなくなる。文末が柔らかくなったのに接続だけが硬いと、一文の中で高さが揃わないからです。「なぜなら」は硬さをいくらか残したまま生き延び、後置の理由づけを担う口語寄りの形が、そこへ加わっていきました。

構造を分解すると、この語は引用の「と」に「言う」が付き、形式名詞と係助詞が続く形をしています。もとは「〜と言うのも(〜だからだ)」という説明の枠だった。ここで注目したいのは順序です。まず断定を置き、それから理由を後ろへ回す。「〜だから、〜だ」と並べた場合と、読者の心の動きが違ってくる——先に結論を受け取り、あとから根拠を照合する順番になる。照合の段階に入った読者は、すでに結論を一度は抱えているわけです。抱えたものを手放すのは、最初から受け取らないより難しい。後置の理由づけが説得の形として残ってきたのは、この非対称と無関係ではないはずです。

分解した部品のうち、引用の「と」はもう少し重い役を負っています。「と言う」とは、発された言葉を対象として取り上げる動詞です。したがってこの形は、直前の断定そのものを一度括弧に入れ、そう言った理由を述べる、という二重の構えを取れる。命題が正しい理由と、その命題をいま口に出した理由は、本来べつの事柄です。「なぜなら」が導けるのは前者だけですが、こちらは後者へも滑ります。口語の側には同じ位置を占める語が別に用意されていて、弁明を担うのはもっぱら「だって」「なにしろ」のほうでした。冒頭の子どもが選んだのもこちらです。反射で出る三拍と、口に出すまでに一呼吸を要する五拍。会話文にこの語を置けば、その人物は感情ではなく理屈で身を守る型として読まれます。反射で出た弁明は相手の情に働きかけ、組み立ててから出した弁明は相手の理を試します。そしてこの形は、談話の先頭には立てません。すでに何かを言い終えていなければ、括弧に入れるべき断定がそもそも存在しないからです。理由から書き起こす文章には出番がなく、言い切りを先に置く文章でしか働けない。制約のように見えますが、これは働き場所の指定でもあります。

翻訳文体の匂いがある、と言われることがあります。理由節を後ろに置く欧文の構文を、そのまま日本語に移した跡だ、という見方です。ただ、後置の理由づけは古い日本語の文章にも見つかります。増えたことと、輸入されたことは別——由来を一つに帰す説明は、たいてい早すぎる。近代以降に目立つようになったのは確かだとしても、それは新しい構文が入ったからというより、断定を先に置ける地の文が成立したからだ、と考えることもできます。言い切ってよい文体がなければ、言い切った後に弁明する形も生まれません。

一人称の語りに置くと、この順序がそのまま人物の輪郭になります。言い切ったあとで根拠を足す語り手は、言い切りに自信を持てていない。補正の音が地の文に混ざる。信頼できない語り手の演出にはよく効きますし、逆に何度も繰り返せば、作品全体が言い訳の調子を帯びます。訓読体の語彙が担っていた「高いところからの説明」は、この語では出せない。同じ理由を導く位置にありながら、立っている高さが違う。近代の書き言葉が手放したのは接続の語彙だけではなく、説明する者が読者より上にいるという前提のほうでした。

文: hakadoru.ai 編集部

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