「大」という漢字は、人がまっすぐ立って両腕と両脚をいっぱいに広げた姿をかたどった象形文字だとされています。甲骨文字の段階からその形は明瞭で、大きさという抽象概念を、身体を最大に広げるという動作で表した字です。布団の上で大の字に寝る、という言い回しは、三千年前の造字の発想を現代人が身体でそのまま再演しているようなものです。この字の音読みが二つあることも、由来の層を映しています。ダイは呉音、タイは漢音。中国から音が伝わった波が二度あり、古い波と新しい波が別々の読みとして定着しました。大事と大切、大王と大将のように、同じ字が熟語ごとに違う波の音を保存しています。
漢音のタイを頭に載せた程度の語は、ほかにもひと通り揃っています。たいそう、たいへん、たいがい、たいてい。漢字を当てれば大層、大変、大概、大抵。いずれも量や規模を言う漢語から出発して、程度を言う副詞の側へ移っていった語です。大変は本来ただごとでない事態を指す名詞でしたし、大抵はおおよその範囲を示す語でした。それが「大変おいしい」「大抵は間に合う」のように、事態の重さそのものではなく、話し手の見積もりを述べる位置へ動いている。程度副詞というのは、こうして具体的な量の語が意味の重心を失っていく先にできる品詞なのだと考えられます。見出し語もこの一族の一員です。ただしその移動の途中で、副詞ではなく連体詞という別の出口へ抜けました。同じ字を頭に戴きながら、行き先だけが違っている。
その「大」に「した」が付いた 大した は、形の上では動詞の過去形のような顔をしています。しかし「大する」という動詞は現代語にありません。かつて存在した動詞的な言い回しの連体形だけが、本体を失ったあとも名詞の前という定位置に残った形——成り立ちの細部には諸説ありますが、動詞に由来する形が凍結して連体専用になったという骨格は、広く共有されています。
同じ棚には仲間が並んでいます。とんだ災難 の とんだ、ふとした拍子 の ふとした、れっきとした家柄 の れっきとした。いずれも動詞の過去形の姿をしながら、もう活用せず、名詞の前にしか立てません。品詞でいえば連体詞です。日本語の品詞の中で最も所帯が小さく、新しい仲間がほとんど増えない、閉じた品詞。文法の現役を退いた語形が最後に収まる場所という意味で、連体詞は品詞の博物館だと言えます。
博物館の棚を見渡すと、収蔵品の出自がばらばらであることに気づきます。この、その、あの は指示の語から。ある日 の ある や、来る十日 の 来る は、動詞の連体形が固まったもの。いわゆる は、古い受身の助動詞を含む形が化石化したと説明されます。大きな、小さな は、形容詞とも形容動詞ともつかない古い語形の名残です。共通しているのは意味でも語源でもなく、活用を失ったという一点だけ。動詞だったもの、助動詞を含んでいたもの、代名詞だったものが、機能を落としたあとで同じ棚に流れ着いています。品詞というのは似た者を集めた分類だと思われがちですが、この棚に限っては、残された形の共通点で括られた収容所に近い。新入りがほとんど増えないのは、活用を失うという事故がそう頻繁には起きないからでもあります。語は死ぬときに消えるとはかぎらず、こうして形だけを残して勤めを変えることがあります。
意味の側にも化石化の痕があります。大きいという寸法の意味は薄れ、程度が並外れているという評価だけが残った。しかもその評価は、否定と組むときに最も自然に働きます。たいしたことはない、たいした違いはない。肯定文で使えば、たいした男だ という賞賛にも皮肉にも転ぶ。副詞形の たいして に至っては、ほぼ否定文専用になっています。程度の大きさを言う語が、大きくないことを言うためにばかり使われる——この逆説も、語が文法の部品へと風化していく過程の一つの表情です。文脈の極性で顔つきが変わるこの偏りは、辞書の語義欄を眺めているだけでは見えず、用例の海に出て初めて分かる性質です。
一語の中に、両腕を広げた人の絵と、二度の音の輸入と、消えた動詞の抜け殻と、否定に引き寄せられる意味の癖が、地層のように重なっている。語源を調べることは、由来の豆知識を集めることではなく、この地層の断面を見ることです。断面が見えていれば、時代小説の台詞に馴染むか、皮肉として響かせられるかといった判断も、勘ではなく地層の読みとして下せるようになります。