やった

【やった】感動詞

使い分けの視点

「ばんざい」「わあい」は喜びを周囲と共有し、後者は幼い声です。「よし」は達成確認から次の行動へ移り、「しめた」「してやったり」「ふっふ」は好機や策略の成功を一人で噛みしめます。「うまくいった」は結果を説明し、「やったぜ」は粗野で勢いある話者、「勝った」は競争の決着を明示します。

同義語

同品詞の類義語

ばんざい
よし
しめた文芸的
わあいcolloquial

類義句

同品詞の慣用的言い換え

してやったり文芸的
うまくいった

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

やったぜcolloquial
勝った
ふっふcolloquial

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

空の達成報告を細部で満たすエッセイ関連

例文: 最後の歯車が噛み合うまでを描き、空の達成報告を細部で満たしてから歓声を置いた。

送り出す動詞が歓声になるまで——中身のない達成報告

派遣、遣唐使、小遣いと並べてみます。同じ字に共通しているのは、こちらから向こうへ何かを送り出すという動きです。和語の「やる」にもこの字が当てられて「遣る」と書かれてきました。使いをやる、目をやる、思いをやる——どれも、自分の側にあるものを離れた場所へ移す言い方になっています。手元に留めるのではなく放つところに、原義の中心があったと考えられています。

送り出す動きから、相手に渡す意味が生まれるのは自然でしょう。物をやる、餌をやるという言い方が生まれ、そこからさらに、行為一般を指す用法へ広がっていきました。宿題をやる、仕事をやる、一杯やるところまで来ると、到達点はほとんど内容を持たない汎用動詞です。意味が薄まるほど守備範囲が広がるという、語にはよくある交換が起きています。薄い語ほど、あらゆる場面に呼び出されるわけです。

もっとも、意味だけが薄くなったのではありません。補助的に他の動詞へ付いたときには、話し手が受け手を下に置く含みが残ります。書いてやる、教えてやるといった形には、恩を着せる響きが避けがたく付いてくるので、目上に向けては使いにくくなっています。もとの「こちらから向こうへ移す」という方向性が、待遇の上下として読み替えられたのだと説明されることがあります。物の移動を表す語が、人の位置関係を表す語に転じる——同じ一語が、恩着せと歓喜という遠く離れた二つを担っているのは、この転用の副産物でしょう。

その最も薄い形に、完了の助動詞が付いて一語で立ちます。主語も目的語も現れず、何を達成したのかを、この語は一度も言いません。放ったものが的に届いた、という原義の絵をそこに重ねたくなるのですが、語誌がそう保証してくれるわけではありません。歓声としての用法がいつ定着したのかも、はっきりとは言いにくいところです。ここは踏みとどまっておきます。原義との連想は、読み手の側で後から生まれたものかもしれません。

そもそも喜びを作っているのは動詞ではなく、タ形のほうではないか、という疑いも立ちます。勝った、できた、当たった、間に合った——どれも完了を報告する形のまま歓声になります。だとすればこの語に特別なところはない、という反論が成り立ちそうです。ただ、並べてみると一点だけ違いが残ります。他の語はいずれも達成の中身を語のうちに抱えているのに対して、ここだけが空っぽで通用します。中身がないぶん、崩した形にして声を落とせば、同じ骨格のまま失敗の側にも倒れる。達成と失態が同じ器に入るのは、器が空だからです。

書く側から見ると、この空白は便利であり、同時に危ういものです。中身を書かずに済ませられるので、直前の場面が薄いまま歓声だけが浮くことがあります。逆に、直前で細部を十分に積んでおけば、空の一語は読者が抱えている具体で満たされます。届いたのが矢なのか、答案なのか、返事なのかは書かなくてよい。書かないことが効くのは、書いてある部分が足りているときだけです。

文: hakadoru.ai 編集部

エディタで直接置換して執筆を加速

SaaS エディタではシソーラスの結果をワンクリックで本文に反映できます

無料で始める →