インターネットの通信を支えるTCPという規約には、スロースタートと呼ばれる仕組みがあります。送信側は回線がどれだけの量に耐えられるかを知らないので、最初はごく少量のデータだけを送り、無事に届いた確認が返ってくるたびに送る量を増やしていく。回線の容量という見えない天井を、小さな試行の積み重ねで探るわけです。設計の根底にあるのは、環境の状態が未知であるという前提と、いきなり全力で送れば輻輳——ネットワークの渋滞を引き起こして全員が損をする、という見積もりです。
この振る舞いを人間の身体に移すと、廃屋の腐りかけた床を渡る足取りになります。そろそろと進む人物がやっていることは、まさに同じアルゴリズムです。床の耐荷重は未知で、踏み抜けば怪我をする。だから片足に少しずつ体重を移し、床が返す軋みと撓みを観測してから、次の一歩の置き場所を決める。試行を小さく刻み、観測の結果を次の行動に反映する。似た設計は通信の再送処理にもあって、衝突が起きたら少し待って送り直し、また衝突したら待ち時間を倍に伸ばす、指数バックオフと呼ばれる方法が使われます。慎重さとは単に遅いことではなく、失敗の情報を次の試行の設計に組み込むことだ、という思想が両方に流れています。
小さく刻むことには、もう一つの効能があります。取り消しの余地が残ることです。体重を半分しか移していない足は、床が鳴った瞬間に引き戻せます。全体重を預けてしまえば、もう戻れません。システムの世界でこれに当たるのが、更新をまず一部にだけ適用して様子を見る段階的な展開の手法です。異常が出れば、影響を受けたのは全体のごく一部で済み、前の版へ戻せる。逆に全台へ一斉に配れば、失敗は取り返しがつかない。慎重な歩き方の本質は速度ではなく、いつでも一歩前の状態へ帰れるという性質のほうにあります。この語が描く人物は、常に自分の後ろに退路を一歩ぶん残しながら進んでいるわけです。裏を返せば、退路を捨てた瞬間にこの副詞は使えなくなります。飛び降りる、駆け出す、体ごと預ける——引き返せない動作の側には、別の語彙が待っている。慎重さを表す副詞の群れは、取り消し可能性という一点で、決断を表す動詞の群れと線を引かれているのです。
そろそろ という畳語の形も、この構造と噛み合っています。同じ音の反復は、同じ手続きの反復をなぞる。足を浮かせ、下ろし、体重を移し、確かめる——このループが回り続けている限り、副詞の効力も続きます。プログラムの繰り返し文が終了条件を満たすまで同じ処理を回すように、この語の反復音は、安全確認を伴う一歩というサブルーチンが繰り返されていることを、音の形で写している。日本語の畳語やオノマトペには反復動作を反復音で写すものが多く、いわば実行過程の音写です。
時間の用法への広がりも、同じ図式で読めます。そろそろ帰ろう、と言うときのこの語は、慎重な動作ではなく時刻の接近を表しています。一見別の意味ですが、共通するのは、連続する量が境界に少しずつ近づいていくという感覚です。数値を監視していて、閾値を超えそうになったら通知を出す処理に似ている。動作の漸進から時間の漸近へ、意味の拡張が、量の増え方という抽象的な骨格を保ったまま起きていると見ることができます。
ただし、慎重さは無料ではありません。スロースタートには昔から知られた弱点があって、回線が実は十分に太かった場合、その容量を使い切るまでに無駄な時間がかかります。腐っていない床を刻んで渡る人物も同じで、費やした時間はそのまま損です。物語の中でこの損は、二通りに読まれます。用心深さとして読まれるか、臆病として読まれるか。分かれ目は、床が実際にどうだったかを作者が後で明かすかどうかにあります。抜けた床を書けば人物の判断は正しかったことになり、何事もなかったと書けば、同じ足取りが過剰な見積もりの記録に変わる。慎重さの評価は、環境の側が事後に決めるのです。
小説にとって重要なのは、この語が読者に渡す情報の種類です。速い遅いという速度の情報だけなら、ゆっくりと でも足ります。そろそろと を選んだ瞬間、読者は速度に加えて、人物が環境を信用していないこと、失敗の代償を大きく見積もっていることを受け取る。つまりこれは運動の描写である以上に、認識状態の描写なのです。人物が世界をどう推定しているか。副詞一語にそれを語らせられる場面で、わざわざ地の文に説明を書き足す必要はありません。