それに対して

【それにたいして】接続詞

使い分けの視点

二つの事柄を向かい合わせに置き、あいだに緊張の軸を通すのがこの語の仕事です。「一方」は視線を横へ移すだけで二者は別の方角を向いていてもよく、「ひるがえって」は書き手自身が身を翻す運動です。対立や優劣を含む比較にはこの語がよく合い、単なる並べ上げに使うと、書き手が対立を煽っているような余計な圧が生まれます。誰をどこに立たせるかという演出の強度として選んでください。

同義語

同品詞の類義語

一方
対して
他方文芸的
片や文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

そのいっぽうで
これとは別に

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

ひるがえって文芸的
対照的に文芸的
比べてcolloquial

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

舞台指示エッセイ関連

例文: 接続詞が舞台指示だとすれば、彼の「一方」はいつも二人を川の両岸に立たせた。渡す橋は、一度も書かれなかった。

正対エッセイ関連

例文: 正対の構文は、まだ起きていない衝突の予感を段落にだけ忍ばせる。事件は何も書かれていないのに、読者はもう火種を見ている。

向かい合う文——対比を身体の配置で読む

将棋盤を挟んで二人が座り、剣道の試合前には二人が正面で構えます。対局、対戦、対面——「対」を含む語は、どれも二つのものが顔を突き合わせる配置を描いています。この身体的な配置が、そのまま文章の中へ持ち込まれたのが対比の構文です。「兄は理詰めで動く。それに対して、弟は勘で動く。」二つの文は紙の上では上下に並んでいるだけなのに、読み手の頭の中では、向かい合って立ちます。

認知言語学には概念メタファーという考え方があります。抽象的な関係を、人は身体的な経験の型を借りて理解しているという見方で、議論を戦争として、時間を移動として捉える例がよく知られています。対比もその一例で、二つの事柄を「比べる」という抽象的な操作は、二つの物体を向かい合わせに置くという空間配置に写像されていると説明できます。「に対して」の「対」が保っているのは、この向かい合いの残像です。壁に対して直角に、のような物理的な方向を示す用法が比較の用法へ拡張されたあとも、正対の幾何学は薄く残り続けます。

残像の濃さは、類義の語と並べるとよく見えます。「一方」は視線の水平移動です。カメラが片方からもう片方へパンするだけで、二者は向かい合っておらず、それぞれ別の方角を向いていても構いません。「ひるがえって」は、書き手自身が身をひるがえす回転の運動です。それに対して——と、ここで実物を使えば——この語だけが二者を正対させ、あいだに緊張の軸を通します。だから対立や優劣を含む比較にはよく合い、単なる並記に使うと、書き手が対立を煽っているような余計な圧が生まれます。

正対の図には、しかし見落としやすい非対称が含まれています。向かい合って立つ二人にも、先に立っていた者と、後から向き直った者の区別がある。この構文でも、先に述べられた側が基準になり、後から置かれた側はその基準からのずれとして読まれます。認知言語学では、ある対象へ到達するための足場になるものを参照点と呼びますが、対比の第一項はまさにその足場です。兄を先に置けば弟は兄の変形として読まれ、弟を先に置けば兄のほうが変形になる。同じ二人の同じ性質を書いているのに、どちらを先に据えるかで人物の重さが入れ替わるわけです。書き順は情報の順序であると同時に、書き手がどちら側に立っているかの申告になっています。

配置の比喩は、距離についても指示を出します。二人が正対するには、あいだに間隔が要る。近すぎれば向かい合いの形にならず、遠すぎれば互いの顔が見えません。文章でも似たことが起こります。対比される二文が隣り合っていれば軸はまっすぐ通りますが、あいだに補足を三つも挟めば、後件が届く頃には前件の姿勢が崩れている。段落をまたいでこの接続詞を置いた文章が妙に力を失うのは、おそらくそのためです。逆に、二文を極端に切り詰めて並べると、正対は睨み合いに近づく。間隔の設計は、そのまま対立の温度の設計になります。三者以上を比べたい場合に、この語が急に使いにくくなるのも同じ理由からです。三人は正面で向かい合えず、円になるほかない。列挙の助詞や箇条の形式へ逃げたくなる瞬間があるとすれば、それは配置の幾何が破れた地点を、書き手の手が先に感じ取っているのでしょう。

向かい合いの空間性には、比喩の外側からの傍証もあります。日本手話では、比べたい二つの対象を体の右側と左側の空間にそれぞれ配置し、以後はその位置を指し示すことで対比を進める表現が使われます。対比が文字どおり、空間の中に組み立てられるわけです。音声で話す人でも、二つのものを比べながら右手と左手を交互に持ち上げる身振りは珍しくありません。相撲の取組紹介に由来するとされる「片や」という言い方が今も残っているのも示唆的です。比べるという操作の底に身体の左右と正対があることを、言葉の外の証拠が支えています。

小説の実務に引きつければ、これは対比の演出強度を選ぶ問題です。データを並べるだけの説明文なら「一方」で流すのが穏当ですが、二人の人物の生き方を並べる段落なら、正対の語を選ぶことで、まだ起きていない衝突の予感を段落の構造にだけ忍ばせることができます。台詞にも事件にも触れず、接続の一語だけで火種を置くわけです。接続詞は論理記号である前に、読み手の頭の中に配置図を描く舞台指示に近い。誰をどこに立たせ、どちらを向かせるか。その指示を経由して、対比という抽象的な操作は、初めて体温のある場面になります。

文: hakadoru.ai 編集部

エディタで直接置換して執筆を加速

SaaS エディタではシソーラスの結果をワンクリックで本文に反映できます

無料で始める →