掘りたての筍を米ぬかで下茹でする。里芋の皮を厚めに剝いて塩で揉む。台所の下ごしらえには、あの味を抜くための工程がいくつも組み込まれています。甘い、辛い、酸っぱいのどれでもなく、喉の奥と舌の根に引っかかって残る、刺すような感じ。口に入れた瞬間ではなく、飲み込んだあとから主張してくる遅さも、この感覚の特徴です。日本語はこれに専用の形容詞を割り当てました。しかもその歴史は、見かけよりずっと古い。
この語の語根は、奈良時代まで遡れると考えられています。万葉集には「ゑぐ」という水辺の植物を摘む歌があり——雪解けの水に裳裾を濡らして摘む、と歌われています——その正体はクワイの仲間など諸説ありますが、候補はいずれもえぐみの強い植物です。植物の名が先か、味の形容が先かは決めがたいものの、千年以上前から「ゑぐ」という音があの刺す感覚の周りに張り付いていたことは確かなようで、古語辞典には形容詞「ゑぐし」が立項されています。ワラビを灰であく抜きし、芋を茹でこぼす。えぐみと付き合いながら山のものを食べてきた食文化が、この語彙を絶やさず保存してきたとも考えられます。
面白いのは、この感覚が「味」の定義から半分はみ出していることです。今日の味覚研究で基本味とされるのは甘・塩・酸・苦・うま味の五つで、えぐみはそこに入っていません。渋みと同様、味細胞への刺激というより口腔粘膜への刺激、収斂や軽い痛みに近い感覚だと説明されます。物質としても単一ではなく、里芋ならシュウ酸カルシウムの針状結晶、筍ならホモゲンチジン酸などが要因として知られています。煮汁に溶け出すそれらを「灰汁」と呼んで掬い捨てる慣習も、この攻撃性をよく写しています。つまりこれは厳密には味ではなく、口が受ける攻撃です。感覚として確かに実在するのに、生理学の分類表に正席がない。語彙のほうが科学の分類より先に、そして分類とは別の線引きで、経験を切り分けていた例だと言えます。
「えぐる」という動詞との音の近さも、この語の感触を支えています。両者を同根とみてよいかは確かなことが言えませんが、話者の直感の中では「喉を抉るような味」という連想が自然に働く。漢字表記に「刳い」が当てられることがあるのは、その連想の反映でしょう(「蘞い」という表記もありますが、どちらも常用外で、実際にはほぼ仮名で書かれます)。系統上の事実とは別の層で、音の類似と表記の連想が語の手触りを作っている。語源俗解と切り捨てるには惜しい、語の生きた感触の一部です。
そして現代、この語は味覚を遠く離れました。むごい描写や苛烈な仕打ちを評する用法を経て、若い世代では強意と賞賛の語として使われます。信じがたい点差、見事すぎる演奏。この転用を嫌う向きもありますが、味覚語が程度語へ磨り減っていく径路は「あまい見通し」「しぶい選択」と同型の、いわば王道です。近い働きの「やばい」との違いは出自にあります。危険の語から来た「やばい」が事態の全体を評するのに対し、こちらは感覚の語から来たぶん、対象の質感——濃さ、鋭さ、過剰さ——に評価の焦点が残る。褒め言葉に転じてなお、こちらの喉に何かを引っかけてくるものへの賛辞であり続けている。千年前の水辺の植物の味が、まだ語の芯に沈んでいます。