颯爽たる

【さっそうたる】連体詞

使い分けの視点

「颯爽たる」は名詞の前だけに残った文語形で、姿や足取りを静止画のように切り取ります。現代文では古さより大げささや芝居がかった称賛が立つため、語り手が本気で讃えるのか、少し茶化すのかを明確にします。動作を進めたい場面では連用形を選びます。

同義語

同品詞の類義語

颯爽とした文芸的
凛々しい文芸的
勇ましい
潔き文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

風を切るような文芸的
気概に満ちた文芸的
歯切れの良い

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

まさに颯爽とした文芸的
他ならぬ凛々しき文芸的
風さわやかな文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

大げさな晴れ姿エッセイ関連

例文: 大げさな晴れ姿を村人に笑われ、若者は兜の飾りを外した。

活用表の一マスだけが生き残った

日本語には、活用の表のうち一つのマスだけが現代まで残った語形があります。堂々たる、燦然たる、確固たる、毅然たる。どれも文語の助動詞「たり」の連体形で、他の活用形は口語からほぼ姿を消しました。終止形の「たり」は擬古文でしか使えず、未然形も已然形も日常の文章には出てきません。連体形だけが化石として残り、名詞の前に立ち続けている。この語形も同じ列に並びます。

隣にもう一系統あることも見ておく必要があります。文語の「なり」の連体形「なる」も、同じように連体形だけを残しました。単なる、聖なる、大いなる、いかなる。二つの系統は棲み分けていて、漢語の語幹には「たる」が付き、和語や古い語基には「なる」が付く傾向が見てとれます。同じ働きをする金具が二種類あり、材料によって使い分けられている。近代の書き言葉は、この二本立ての仕組みを受け継いだうえで、片方を大量に使いました。

漢語にこの形を付ける造語は、明治期の文章語で盛んに行われたと説明されます。論説文や翻訳文体の中で、漢語の語幹に文語の活用を接いで修飾語を量産する。当時の書き手にとっては、意味を担う漢語と、それを名詞に接続する文法的な金具とを組み合わせる、効率のよい手続きだったのだろうと思われます。個々の作家や年代を特定して語るのは避けますが、この形式が近代の書き言葉の中で膨らみ、その後ほとんど新規に作られなくなった、という大まかな流れは見てとれます。生産力を失った造語法は、既に作られた語の在庫だけで営業を続けることになる。

ここで、よくある整理に異議を挟んでおきます。「颯爽たる」は文語的で、「颯爽とした」は口語的である——そう言い切ってしまうと、実際の読後感を取り逃がす。現代の文章でこの語形に出くわしたとき、読者が感じるのは古めかしさよりも、むしろ大げささのほうです。芝居がかっている、演説めいている、という方向のずれ。文語であることが、時代を示す標識ではなく、声量を示す標識に変わってしまった。語の格が下がったのではなく、担当する役柄が入れ替わったのだと思います。

死んだ活用は、一つの制約を残しました。この形は述語になれません。彼は颯爽たり、と書けば、それは擬古文の宣言になってしまう。だから常に、後ろに名詞が来るのを待つしかない。修飾しかできない語は、文の中で従属的な位置しか取れず、主節の骨格を担うことができない。結果として、人物が現れる一瞬の姿を名詞句として提示する用法に集中していきます。颯爽たる姿、颯爽たる足取り。これは動作の展開よりも、静止画としての印象を切り出す形式です。

そのため、現代小説でこの語形を使うと、必ず文体の意図が読み取られます。透明にならない。地の文の語り手が本気で称賛しているのか、それとも人物の自己像を少し茶化しているのか、読者はそのどちらかを決めにかかります。中立に置くことはできません。使うなら、どちらに読まれても構わない位置にではなく、どちらに読まれるかを書き手が選んだ位置に置く。生き残った一マスには、それだけの重さがついています。

文: hakadoru.ai 編集部

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