漢字の側を見ると妙なことに気づきます。この語を書くのに使われる字は、貝偏です。貝の字が偏に立つ漢字は、財・貨・貯・購・賠のように、およそ金銭や財物に関わる意味を担う。ところが現代語で表すのは、人の多さと音の多さです。財産の字が、なぜ騒々しさを引き受けているのか。字と語義がずれているように見えるこの状態は、実は語のほうが動いた跡です。
字の本義は豊かさ、そして豊かさを分け与えることにあります。飢饉のときに官が貧民へ財を配ることを表す熟語にこの字が使われ、救済の文脈で用いられてきました。富んでいること、そして富を動かすこと。貝偏の意味範囲からまったく外れていません。日本語がこの字を訓で読ませたとき、当てられた和語のほうも、本来は同じ側にありました。古語の動詞形が指したのは繁盛や富裕のさまであり、名詞形は今でも商店街の繁盛を言う語として生き残っています。人が集まって物が動き、金が回る。それが元の焦点でした。
和語の側の造りも見ておきます。にぎやかは、語幹に接尾辞のヤカが付いた形です。鮮やか、穏やか、健やか、爽やか、細やか、和やか——ヤカは、状態が外から見て取れることを言う接尾辞で、内心ではなく表に出ているもののほうに付きます。この接尾辞を選んだ時点で、語はすでに観察される側へ寄っている。ところが語幹のほうは、現代語では単独で立てません。「にぎ」という形で使われる場面はなく、にぎわう、にぎわい、にぎにぎしい、といった派生の中にしか残っていない。自立性を失った語幹が、複数の派生語を支えたまま生き延びている状態です。摩耗した部品ほど、外から見えない場所で働き続けます。逆に言えば、語幹が単独で使えなくなった語は、意味を語幹から検算する手段を失っています。派生形どうしの関係だけが、その語の意味を支えることになる。
そこから現在の意味へは、意味が広がったというより、焦点が移ったと言うほうが正確です。市が立ち人が集まる場所は、必然的に音が多い。豊かさという状態と、人の集まりという状況と、音の多さという知覚は、同じ現場に同居していました。同居しているうちに、語が指し示す中心が経済的な状態から聴覚的な知覚へすべっていく。原因のほうを指していた語が、結果のほうを指すようになる——この種の焦点移動は、意味変化の中でも起こりやすい型として知られています。現代語で商売の繁盛を言おうとしてこの形容動詞を使うと、少し古びて聞こえる。中心が完全に移ったからです。
移動はそこで止まっていません。現代の用法では、音のない対象にも使われます。柄が賑やかだ、盛り付けが賑やかだ、と言うとき、鼓膜は何も受け取っていない。要素の数が多く、密度が高く、視野が忙しいという性質だけが転用されている。聴覚から視覚への横滑りで、共感覚的な拡張と呼ばれる現象です。さらに、通夜の席や失敗の場面で「賑やかなことで」と言えば、皮肉として働く。肯定的な評価を担ってきた語ほど、反転させたときの落差で皮肉に使いやすい。良い意味を持つことが、悪い意味で使える条件になっている。
派生語のほうを見ると、移動の速度が語形ごとに違ったことも分かります。都市政策や商店街の振興を語る文書には、賑わいという名詞が頻繁に出てきます。そこで言われているのは音の量ではありません。人が来て、店が開き、金が落ちること——つまり元の焦点そのものです。形容動詞が聴覚の側へ移りきったあとも、名詞形は経済の意味を保ったまま行政の語彙に残った。同じ語根から出た二つの形が、別々の層を担当している。語族の内部で分業が起きた、と言ってもいい。商店街の賑わいと書けば経済の話に読まれ、形容動詞に替えれば音の話に読まれます。品詞をひとつ動かすだけで、指し示す層が入れ替わるわけです。意味変化は語の単位で起きると考えられがちですが、実際には派生形ごとに別々の速さで進む。同じ語根の内側にも、古い層と新しい層が同居しています。
書くときに使える含意は、この履歴のなかにあります。この語は、音の大きさではなく音源の数を言う語として発達しました。だから一人が大声を出している場面には向かない。逆に、複数の音源を具体的に書き分ければ、語そのものを使わずに同じ像を作れます。皿の触れる音、隣席の笑い、厨房の呼び声、扉の開閉。四つ数えれば、読者の頭のなかでその場は十分に混み合う。形容動詞一語で宣言するか、音源を数えて見せるか。選ぶ前に、自分が書きたいのが状態なのか出来事なのかを決めておくと迷いません。