抽象的な事柄を語るとき、人間の言語は空間や身体の経験を借りてくる。この見方は、レイコフとジョンソンが一九八〇年に示した概念メタファーの議論以来、広く共有されています。議論が「積み上がる」、関係が「近い」、気分が「沈む」。どれも物理的な出来事の言い方が、そのまま抽象へ移されたものです。しかも借りてきたことは、話し手にほとんど意識されません。気分が沈むと言うとき、水面より下へ何かが動く場面を思い浮かべる人はまずいない。写像は使われるうちに透明になり、元の景色は語の裏側へ沈みます。では今回の語はどの空間から来ているのか。そこを考え始めて、思ったより早く行き詰まりました。
すぐ思いつくのは上下です。多いことは上、少ないことは下——株価も体温も、増えれば上がると言う。ところがこの語は上下となじみません。上がった状態を指す語ではないし、下がることの反対とも感じにくい。手がかりを字のほうへ求めると、器に穀物を盛る形に由来するという説明を目にします。字源には諸説があるので断定はできませんが、少なくとも収穫と器のイメージが古くから結びついていたことは確からしい。とすると写像の元は上下ではなく、容器が満ちることのほうです。空の器と満ちた器という二つの状態があり、満ちた側にこの語が置かれている。
同じ字を使う漢語の側を眺めると、広がり方の違いがはっきりします。豊作、豊漁、豊年。どれも収穫の量そのものを言う語で、種類の多さという意味は出てきません。豊富にしても、量か品目の数を述べるところで止まります。和語のほうだけが量の話から離れ、時間にも表情にも響きにも届いた。理由のひとつは、漢語が名詞の頭に固定されていて、結びつける相手があらかじめ決まっているからでしょう。形容動詞の形なら、原理上どんな名詞の前にも置けます。試される回数が桁違いに多い語ほど、比喩の写像も遠くまで伸びる。和語と漢語で行き先が分かれたのは、意味の差というより、置ける場所の数の差だったように見えます。
ここで異議が出ます。豊かな時間、豊かな表情、豊かな響き。これらは容器の話にならない。時間は容れ物ではないし、表情の量を数えることもできない。しばらく考えて、写像がもう一段進んでいるのだろうと思うようになりました。器が満ちているとき、その中身は一様ではなく、いろいろなものが入っている。つまり満ちることは、たいてい多様であることを伴う。この副産物のほうが独立して抽象へ移ると、量ではなく種類の多さを指す用法になる。表情が豊かとは、取りうる状態の種類が多いということです。量メタファーが、多様性のメタファーへ乗り換えている。
写像がどこまで生きているかは、元の領域の推論がどれだけ持ち越されるかで試せます。器の像が働いているなら、器にできることが一通り言えるはずです。満ちるは言える。あふれるも言える。注ぐも通る。ところが空になる、傾く、割れるは通りません。豊かさが空になった、とは書けず、そこでは貧しくなったという別系統の語に交代することになります。器の推論のうち、増える側だけが渡り、減る側と壊れる側は元の領域に置いてこられたわけです。概念メタファーの写像はふつう部分的にしか成立しないと考えられていますが、この語の場合、落とされた部分の選ばれ方に一貫した偏りがある。
もう一つ、単なる量とは違う点があります。数の多さを述べる語は中立で、多すぎて困る場面にも使える。この語はそうなりません。過剰を非難する文脈に置くと、途端に据わりが悪くなる。つまり評価の向きが語のなかに固定されていて、良い方向にしか傾かない。写像の欠落と、これはおそらく同じ事情の表と裏です。減る側の推論を受け取らなかった語は、減った状態を自前で名指す手段を持たない。持たない以上、比較の軸の片側だけを占めることになります。撞着した言い方をわざと作れば別ですが、そこで生じる違和感の強さ自体が、この語が中立でないことの証拠になります。
創作の側から見ると、この性質は扱いにくさとして現れます。良い方向の評価が最初から入っている語は、書き手が判断を済ませた後の語だからです。豊かな自然、豊かな人生——読者はそこで具体を想像しません。器の形だけが渡って、中身が空のまま通り過ぎる。だから使うなら、中身を一つだけ添えるのが手堅い。何が何種類あるのか、その一例を隣に置く。器の語である以上、書き手の仕事は器を掲げることではなく、中に入っているものを一つ取り出して見せることのほうにある。