三水に林、と分解してみると、その字には水が入っています。もとは水が滴り注ぐさまを表す字で、日本語の「さびしい」に当てられたものだと説明されることが多い。当てられた経緯を確かめる材料は手元にありませんが、字面を見ているうちに、感情の語に水が混じっていることのほうが気になってきます。乾いた孤独ではなく、じわじわと滴る側の孤独。もっとも、これは字を後から眺めた者の連想であって、書き手がその含意を意図して選んでいるかどうかは、また別の話です。
事実として確かなのは、この字が常用漢字表に入っていないことです。だから新聞や教科書では、同じ語に「寂しい」の字が使われる。つまり片方は既定値で、もう片方は既定値から外れた選択になる。表記の選択肢が二つあるとき、片方が制度的に標準とされていると、もう片方を選ぶ行為には自動的に意味が生じます。選ばなかったほうがある、という事実そのものが情報になるからです。作家がこの字を使うとき、少なくとも書き手の側では、何かを選んでいる。
その既定値も、固定されたものではありません。常用漢字表は昭和五十六年に告示され、平成二十二年に一度改定されて、日常の文章で使う字の範囲が引き直されました。改定では新たに表へ入った字がいくつもあり、それまで仮名で書くか振り仮名を添えるかしていた語が、ある年を境に堂々と漢字で書けるようになっています。この字は追加されませんでした。表の外にあるという地位は、語の性質から出たものではなく、表を作った側の判断の履歴です。既定値から外れる選択をしているとき、外れている先を決めているのは書き手ではない。年表の側が決めている。
表の外にあることは、語形の広がりにも効いてきます。標準の側の字は、送り仮名を替えれば別の語に渡っていける。寂しい、寂れる——形容詞から動詞へ、そのまま同じ字で移動できます。音読みに切り替えれば静寂や寂として声なしといった漢語の側にも顔を出す。ところがもう一方の字は、日常の文章では形容詞の一形しか担いません。動詞形を同じ字で書こうとしても、そういう習慣がないので読者が読みを決められない。書き手はここで、字の姿を選んだつもりで、実際にはその語形だけを選んでいることになります。場面の別の一行で動詞や副詞に開きたくなったとき、字のほうが付いてこない。表記の選択には、その先で使える活用の範囲まで含まれている。
問題は、その選択が読者に届いているかどうかです。ここは正直に言えば、大半は届いていないと思います。読者は表記を意識せずに語として受け取る。二つの字を並べて印象の差を答えられる人は多くないでしょうし、電子的な読書環境では表示フォントによって印象も変わる。表記に情緒を託す感覚は、書き手の側だけで完結している現象かもしれない——そう疑ってみると、この字を選ぶ理由の半分は消えます。半分は、ということは、消えない半分もある。
消えない半分は、視覚と速度のほうにあります。ひらがなで書けば行の中を滑り、漢字で書けば黒みが増して視線が一瞬止まる。一行あたりの漢字の量は、読む速度に確かに影響します。三水を含む字は左側に細かい点が並ぶので、密度の感じもわずかに違う。さらに読みの揺れもある。同じ表記が「さびしい」とも「さみしい」とも読まれ、後者は前者からの音変化とされます。書き手が「さみしい」と読ませたいなら、漢字表記のままでは指定できません。表記は意味を運ぶ前に、まず読む速さと音を決めている。
そう整理すると、実務の判断は素直になります。第一に、一つの作品の中で表記を混在させない。同じ語が二種類の字で現れると、読者は意味の差を探して立ち止まり、たいてい何も見つからずに戻ってきます。第二に、読みを固定したい場面ではかなで書くか、初出にルビを振る。第三に、地の文と会話文で方針を分けるのは、混在ではなく設計として通ります。手紙文だけ表外字を使う、というような区分けも同じです。第四に、掲載先の表記規則を先に確かめておく。媒体によっては表外字を標準の字へ揃える方針があり、その場合、書き手が積み上げた選択は入稿の段階でまとめて消えます。消えることが分かっているなら、字ではなく語順や仮名の配分で同じ効果を作っておくほうが確実です。字の姿に感情を託せるかどうかは分かりませんが、読む速度と音を選べることだけは、確かに書き手の側に残されています。