定食屋の品書きに「旨い」とあり、その隣の手書きの張り紙には「美味しい」とあり、駅の柱の広告には仮名だけで「うまい」と刷ってある。歩きながら三つを続けて見ると、同じ語が三通りの姿で並んでいることになります。書き手は明らかに字を選んでいる。選択の余地があるということは、字が語の意味以外の何かを運んでいるということです。何を運んでいるのかが、すぐには言葉にならない。
制度の側から確認すると、事情の一端が見えます。常用漢字表に載っている「旨」の訓は「むね」であって、味の意味の訓は含まれていません。「美味」に読みを当てる形も表の外にあります。つまり、この語を常用漢字表の範囲で漢字書きする方法は用意されていない。公用文や新聞が仮名書きを選ぶ傾向があるのは、その帰結でしょう。逆に言えば、品書きも広告も表の外にいるからこそ、字を選ぶ自由が残っている。制度が手を引いた領域に、書き手の裁量が溜まっている。
送り仮名の位置を見ると、表記が語の形を裏切っているのも分かります。語としては二拍の語幹に活用語尾が付くだけの、全体で三拍の単純な形容詞です。ところが二字の漢字に読みをまとめて当てた書き方では、送られるのは末尾の一字だけになり、字の切れ目と語の切れ目が一致しない。読み手は二字をひとかたまりで受け取ってから、末尾で活用を確認することになります——表記が分析の順序を変えてしまう。同じ音を並べているだけなのに、目で追う手順が別物になる。
字そのものの成り立ちには複数の説明があり、断定は避けますが、口に関わる字とする説明が広く行われています。この字が趣旨や本旨のように要点や本質を指すようになったのは、味の意味からの転義だとされる。味わいが物事の中心へ写し取られている、という筋書きです。これは日本語ではなく漢字の側の歴史ですが、この字を和語に当てた人たちは、その両方の意味を知っていたはずです。当てるという作業には、選ぶ人の知識が全部入る。
書き分けの問題も避けて通れません。腕前を言うときの字と、味を言うときの字が違う。読者はこの二つをほとんど別の語として読みます。ただし順序は逆で、和語の側にもともと多義があり、漢字が後からそこに線を引いた。表記は分析の結果であって原因ではない。そう整理したくなるのですが、そこで一度止まります。線が定着し、読者が別語として読むようになれば、それはもう機能としては別語です。事後的な線が実体を作ってしまう例は、表記の歴史に珍しくない。
だから字を選ぶことは、意味を選ぶことでもあり、話者を選ぶことでもある。仮名で書けば、腕前と味のあいだの曖昧さが戻ってきます。「あいつはうまい」の一行は、腕なのか味なのか、読者の中で一瞬決まらない。その揺れを利用できる場面がある。会話文でどちらかの漢字を当てれば、揺れは消えるかわりに、その人物の話し方の階層まで決まってしまう。柔らかい表記を選んだ人物と硬い表記を選んだ人物は、同じ台詞を言っていても別人として立ち上がります。