うらやましい、羨ましい、羨望。同じ心の動きを指す三つの書き方は、紙の上でまるで違う速さを持ちます。仮名だけで書けば粘りが出て読む速度が落ち、漢字を交ぜれば一拍で目に入り、二字の漢語にすると感情は書き手の手を離れて観察対象に変わります。六文字と四文字と二文字という長さの差も、行の組み上がりに直接効いてくる。原稿の中でどれを選ぶかは、意味の選択ではなく温度と速度の選択です。
制度の側からも事情を見ておきます。羨の字が常用漢字表に加わったのは二〇一〇年の改定のときで、それ以前の新聞や教科書ではこの語を仮名で書く方針が広く取られていました。表記の揺れには、書き手の趣味だけでなく制度の履歴が畳み込まれている——ただし制度が表記を決めたのではなく、制度は使われている表記を追認したにすぎません。送り仮名のほうにも規則があります。形容詞は活用語尾を送るのが本則で、しいで終わる語は著しい・惜しいのようにしいから送ります。ところがこの語は、ましいの三字を送る。動詞の羨むが先にあり、その派生語は元の語の送り方に合わせるという規則が働くためで、勇ましい、頼もしい、輝かしいも同じ理屈で説明されます。送り仮名は音の切れ目ではなく、語の系譜を記録している、と言い換えることもできます。
字そのものの成り立ちについては、羊と、よだれを表す部分から成るという説明がなされます。ごちそうを前にした口元の反応を字形に留めたことになり、音読みのセンは羨望のほか、古墳の通路を指す羨道のような専門語にも現れます。訓の側は和語で、うらは心を意味する古い語(うら悲しい、うら寂しいのうらと同じ)とされ、後半のやむについては病むと結びつける説などがあり、一つに定まってはいません。字は口の反応から、和語は心の内側から、それぞれ別の入口でこの感情に近づいている。同じ枠に収まって千年以上たっても、二つの由来はまだ完全には溶け合っていません。
表記の選択が特に効くのは、この語が告白に近い位置で使われるからです。羨ましい、と漢字で書いた瞬間、書き手は自分の劣位を認めています。仮名に開くと角が取れ、考えて言ったのではなく口をついて出たという体裁になる。カタカナで書けば、感情そのものが引用符に入れられ、本気ではないという合図になります。漢語の羨望に置き換えると、感情の持ち主は語り手から離れ、外側から分類された心理として提示される。四つの表記は、同じ感情に対して書き手が取る四つの距離だと考えると扱いやすくなります。
現代では、この選択に機械が一枚噛んでいます。仮名で入力して変換を押せば漢字が出る。仮名のまま置くには、変換を止めるという能動的な操作が要ります。かつては漢字を書くほうに手間がかかり、今は仮名で残すほうに手間がかかる——手間の向きが逆転したのは、この三十年ほどの出来事です。文章中の漢字比率が全体に上がったと言われるのも、この逆転と無関係ではないでしょう。書き手が意識しないと、初期設定のほうへ表記が流れていきます。
校正の現場では表記の統一が求められますが、統一が常に正しいとは限りません。地の文は漢字、会話文は仮名、と分けておけば、書き手の目と人物の口の違いがそのまま紙面に出ます。感情が高ぶる一行だけ仮名に開くという手もあり、その場合は開いた一行が周囲から浮くこと自体が効果になる。
表記を選ばないという選択肢はない。開いても閉じても、読者の速度は変わってしまう。