同じ状態が、記録される場所によって別の言葉になります。産業医の面談記録には「抑うつ気分、胸部圧迫感」と書かれ、本人の日記には「毎朝、押しつぶされそうだ」とあり、スポーツ面の記事なら「重圧に耐えかねて」とまとめられる。そして小説の地の文では「彼は押しつぶされるように背を丸めた」となるでしょう。指しているものは近いのに、四つの語彙はほとんど交わりません。使われる場面ごとに言葉が棲み分ける現象——位相と呼ばれるもの——の、教科書のような例です。
この句の生息域は、その中でも狭い。話し言葉で使われるのは「押しつぶされそう」という様態の形がほとんどで、「ように」で受ける連用修飾の形は、日常会話にはめったに現れません。「ように」の直喩は書き言葉の、それも小説の地の文という限られた土地に住んでいます。さらに一段改まれば「圧し潰されるかのごとく」という文語の層があり、砕ければ「ぺしゃんこになりそう」という擬態語の層がある。同じ感覚の周りに、改まり度の階段が五段も六段も組まれているわけです。だから、誰かが会話の中でふとこの形を口にしたら、その人はその瞬間だけ語りの位相を物語のほうへ切り替えたことになる。人物に物語る癖を与えたいとき、この越境は台詞の設計に使えます。逆に、地の文で使い慣れた形をそのまま会話へ落とすと、その人物だけ本を読み上げているように響きます。
長さを数えてみると、位相ごとの節約の仕方まで見えてきます。この句は、お/し/つ/ぶ/さ/れ/る/よ/う/に で十拍、表記も十字です。面談記録に並ぶ「重圧」は じゅ/う/あ/つ の四拍で二字。ところが「胸部圧迫感」を数えると きょ/う/ぶ/あ/っ/ぱ/く/か/ん の九拍あり、拍の上ではさほど短くありません。縮んでいるのは表記のほうで、五字に収まっている。カルテや見出しが切り詰めているのは、声に出したときの長さではなく、目で追う長さです。漢語は字数を節約し、和語の直喩は字数も拍も惜しまない。どちらの位相に立つかは、何を節約するつもりがあるかで決まっていることになります。紙面と時間に追われる記録ほど短い形へ寄り、読ませることを目的にした文だけが十拍を使える。
専門語との断層も深い。医学の問診では、胸の圧迫感は心臓の病気を疑う重要な訴えとして扱われ、患者の語る比喩を身体所見の語彙へ翻訳する作業が日常的に行われています。比喩表現が診断の入口になる、数少ない現場です。時間軸の断層もあります。古語には「胸つぶる」という言い方があり、驚きや悲嘆で胸が潰れる感覚は、王朝の物語の頃から書き継がれてきました。潰れる比喩そのものは千年選手で、新しいのは「ように」で様態に転用する構文の側だということになります。方言の側にも断層はあります。北海道や東北の一部で「こわい」が「疲れた、体がつらい」を意味する用法はよく知られており、同じ圧迫や消耗の感覚が、土地の言葉ではまったく別の顔で流通している。標準語の書き言葉だけを見ていると、この語彙の地図の起伏は見えません。
四つの言い方には、共通する空欄も一つあります。どれも、押している側を名指していない。受身の形は動作主を文の外へ出しますし、記録の語彙にはそもそも主体を書く欄がありません。本人の書きつけも、誰にやられたとは言わずに済ませています。名指した瞬間、語彙はまったく別の場所へ移る。上司に潰された、家に押し込められた、と書けば、それは症状の記述でも直喩でもなく告発になります。負荷の出どころを空けたままにしておく形式だからこそ、この句は医学の隣にも、日記の中にも、地の文にも置ける。位相をまたいで生きる言い方には、たいていこういう空欄が一つ用意されています。埋めるかどうかは、書き手が場面ごとに決めればよい。
地の文の直喩としては、正直なところ手垢のついた側の表現です。しかし位相をずらすと再生します。台詞に落として「なんか、押しつぶされそうでさ」と言わせる。カルテの語彙で「圧迫感」と書いた直後に本人の生の言葉を並べて、制度の言葉と当人の言葉の落差そのものを見せる。あるいは土地の言葉に通して、標準語の比喩を経由せずに同じ感覚を届ける。どの位相を選んでも、読者に届くのは感覚そのものではなく、その感覚を語るために人物が選んだ言葉の階層です。すり減った表現を捨てるのではなく、別の位相に運んで磨き直す。この句のいちばん新しい使い方は、たぶんそこにあります。