英語の ecstasy は、ギリシャ語の ekstasis に遡ります。「外へ」を表す接頭辞と「立たせる」を意味する動詞から成り、原義は「外に立つこと」。強い感情に襲われた人間は、自分自身の外側へ出てしまう——そういう空間の比喩が語の芯にあります。英語には beside oneself という言い回しもあり、こちらは「自分のかたわらに立っている」。ドイツ語の außer sich も「自分の外で」。ヨーロッパの諸語は、自己の喪失をしばしば位置のずれとして描いてきました。
日本語の「我を忘れて」は、まったく別の比喩を選んでいます。自己はどこかへ移動するのではなく、置き忘れられる。空間ではなく記憶の問題として処理されているわけです。同じ系列に「うつつを抜かす」「正気をなくす」があり、こちらは現や正気という持ち物を紛失する言い方。自己を、立つ場所ではなく携行品として扱う——この違いは些細に見えて、場面の手触りを変えます。外に立つ人は自分の抜け殻を眺めることができますが、置き忘れた人は、忘れていたことに後から気づくことしかできない。
置き忘れという発想が日本語だけのものかというと、そうではありません。中国語には忘我という語があり、忘我地工作、のように副詞的に使って没頭を表します。自分を忘れる、という組み立て自体は漢字文化圏に広く共有されている。ただし日本語の側は、その漢語をそのまま据えるのではなく、和語の動詞に開いて連用形にしました。忘我という二字も日本語に入ってはいますが、こちらは忘我の境地といった熟した句の中でしか動きません。同じ発想から出発して、片方は述語として文の中で活用し、もう片方は硬い名詞のまま固まった。訳語の地図を描くときには、比喩の系統だけでなく、その比喩がどの品詞に着地したかまで見ないと、実際の使い勝手はつかめません。使い勝手の差は、翻訳の現場では語義の差より大きく効きます。
第三の系列として、没頭・没入・夢中があります。「没」は水に沈むことを表す字で、英語の immersed(浸かった)や absorbed(吸い込まれた)と同じく、液体の比喩です。心理学者のチクセントミハイが「フロー」と名づけた状態、つまり行為に完全に集中し、自己意識が消える経験にも、流れという液体のイメージが選ばれました。翻訳とは、結局この三つの系のどれかを選び直す作業になります。lose oneself in music を「我を忘れて聴き入る」と訳した瞬間、紛失の比喩が記憶の比喩へすり替わる。意味はおおよそ保存されても、比喩の骨格は保存されません。
品詞の話を一歩進めると、訳の方向によって難しさが変わる理由も見えてきます。lose oneself in music では、没入そのものが主節の述語を占めている。骨格が没入で埋まるので、その人が何をしていたかは in 以下へ押し込むしかありません。日本語のこの句は連用形の副詞句で、主節の席を空けたまま後ろの動詞にぶら下がります。英日方向では席が余るので、聴き入る、見入る、といった動詞を訳者が自分で補わなければならない。原文にない語を足す作業が発生します。逆方向では、その補われた動詞が消えるか、副詞的な修飾へ格下げされる。訳しにくさの正体は語彙の不在ではなく、情報を載せる席の数が両言語で合っていないことのほうにあります。
そして日本語のこの句には、他の系にない構造がひとつあります。「我に返る」という戻り道が、言語の中にあらかじめ敷設されていることです。忘れたものは思い出せる。出て行ったきりではなく、返ってくる。英語の come to one's senses は感覚の回復であって、忘我と対になる往復切符とまでは言えません。場面を書くうえで、この往復は道具になります。没入の描写は、我に返る瞬間、つまり周囲の物音が急に戻り、時計を見て青ざめるあの一瞬とセットにしたとき、初めて深さが測れる。潜った深さは、浮上に要した時間でしか示せないからです。
だから翻訳のしにくさは、この句の欠陥ではなく仕様だと言えます。空間でも液体でもなく記憶で自己の喪失を描き、しかも復路を備えている。訳語を一つ選ぶことは、この三つの構造のどれを捨てるかを決めることでもあります。外へ出る像を取れば復路が消え、沈む像を取れば忘却の含みが消える。忘れる、と、返る。一組の動詞が、意識の出入りをひとつの小さな物語に仕立てています。