英語の landscape は、もともと風景そのものを指す語ではありませんでした。十六世紀にオランダ語から絵画の用語として英語へ入ったもので、指していたのは一望のもとに切り取られた土地の絵のほうです。窓枠のように四辺があり、視点が固定され、手前と奥が配置されている。だから英語圏で風景を書くという発想には、はじめから額縁が付いてきます。何を枠の内側に入れ、何を外に置くか。その選択が記述の技術になります。
日本語の「叙景」は、別のところから来ています。「景」は日を含む字で、光やひざしの側からできた語だとされます。もう一方の「叙」は、述べること、そして順序立てることです。中国の詩論には情と景を対にする議論の蓄積があり、景を写して情を寓すという発想は古くからありました。つまりこの語の重心は、切り取りではなく叙述の運びの側にある。額縁ではなく、語る手つきのほうを名指している語です。
絵の側にも、同じ対立の実物があります。西洋の風景画は壁に掛けられ、四辺のある枠のなかで一望されます。東アジアの絵巻はそうではありません。右手で巻き解き、左手で巻き取りながら、見えている部分だけを順に追っていく。全体を一度に視野へ収める見方を、形式そのものが想定していない。同じ画面の右と左で、時間の違う出来事が続いていることさえあります。見る順序が作品の構造として組み込まれているという点で、絵巻は絵でありながら叙述の側に片足を置いている——額縁の絵が空間の配置を設計するのに対し、巻物は継起を設計しているわけです。日本語のこの語が名指しているのも、後者の設計のほうでした。掛物と巻物のどちらを標準の形式と考えるかで、風景をめぐる語彙は最初の一歩から分かれていきます。
この差が、訳すときの抵抗になります。description of scenery と置けば意味は通りますが、「叙」が担っていた順序性は落ちます。landscape description とすれば絵画的な枠取りが混ざり込む。setting と訳せば舞台設定の静的な意味に寄り、時間の中で述べられていくという性質が消えます。さらに厄介なのは、日本語のこの語が行為の名でもあり、様式の名でもあることです。叙景詩、叙景文といった言い方が示すとおり、ひとつの語が動作と分類の両方を引き受けている。英語では descriptive passage が分量の単位、descriptive writing が様式の名と、役割が分かれます——一語に重ねられていたものを、訳では二語に割らざるをえない。
順序が本体だという見方は、実作で確かめられます。空、稜線、木立、足元。同じ四つを足元、木立、稜線、空の順に並べると、含まれる情報は一字も変わらないのに、人物の心の向きが逆になります。前者は視線が降りてきて世界に押し戻される運動で、後者は顔を上げていく運動です。額縁の思考ではこの差は扱えません。枠の中身は同じだからです。扱えるのは、述べる順という時間軸を持ち込んだときだけになります。
視線の持ち主をどこまで見せるかという問題にも、東アジアの批評は言葉を用意してきました。清末から民国期にかけての王国維は『人間詞話』のなかで、詩の境地を二つに分けています。作者の我が景物に色を付けている状態と、我が退いて景物だけが立っている状態です。前者では花や鳥がこちらの感情を帯び、後者では見ている者の輪郭が薄れる。この区別は、書かれた景物の目録からは作れません。同じ花と同じ鳥を並べても、視線の主が残っているかどうかで、出来上がるものが変わってしまうからです。景物の選択ではなく、語り手の露出度のほうが分類の基準になっている。額縁を前提にした語彙では、この軸そのものを立てにくい。枠の外にいる者は、はじめから絵に写らないからです。
もうひとつ、訳し落とされやすいものがあります。日本語の記述は主語を立てずに進められるため、誰が見ているのかを明示しないまま景を運べる。英語へ移すと多くの場合、視点人物を主語として立てるか、受動態にするかの選択を迫られます。見る者を消したまま景だけを流すという状態が、構文のレベルで維持しにくい。訳しにくさの所在は語彙ではなく、ここにあります。だから風景の段落を書くときは、枠に何を入れるかより先に、視線をどの順で動かし、その視線の持ち主をどこまで見せるかを決めておくほうが早い。