仕草

【しぐさ】名詞

使い分けの視点

「所作」は型や格式、「素振り」は外から読める態度、「小さな動き」は観察の粒度を強調します。心情の記号に固定せず、場面の物と結びつけたり、感情と逆の動きを置いたりすると、その人にしかない身体になります。

同義語

同品詞の類義語

素振り
振る舞い
身ぶり
所作文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

小さな動き
さりげない素振り
何気ないふるまい

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

猫のようなcolloquial
子どものようなcolloquial
絵になるような

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

身を動かす
手を添える
首を傾げるcolloquial

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

ふとした動き
言葉を超える動き文芸的
くせのある手つきcolloquial

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

物に結びつく動作エッセイ関連

例文: 湯呑みの縁を親指でなぞる、物に結びつく動作が彼女の嘆きより雄弁だった。

型として決められた動き——舞台から近代小説へ渡ったもの

能や歌舞伎には「所作」という語があります。あらかじめ型として決められた動きのことで、舞台の上では、身体は意味を担うために設計されています。偶然そこにある動きというものが存在しない。この事情は、活字の側にもそのまま移ります。小説に書かれた身体の動きは、書かれた時点ですべて選ばれた動きになるからです。実際の人間は一日に数えきれないほど手を動かしますが、そのうち原稿に載るのは数個です。載った時点で、それは型に近づく。近代の日本語の散文が身体の描写に苦労してきたのは、この宿命と無関係ではありません。

明治期の言文一致は、地の文で人物の内面をどう書くかという課題を抱えていました。二葉亭四迷の『浮雲』が試みたのは、話し言葉に近い文体で心理を運ぶことです。内面を直接書けるようになると、外面の動きは説明の補助へ回りやすくなる。腕を組んだのは考えているからだ、というふうに、動きが心情の注釈として使われる形です。逆に、内面に立ち入らない語り方を選べば、動きは注釈ではなく証拠になります。同じ時期に大量に読まれた翻訳小説を通じて、身ぶりを描いて内面を推測させる書き方が流入したとも言われます。どちらを取るかで、身体をどれだけ書くかの配分が決まる。

作家ごとの偏りは、そのまま語り手の立ち位置の差として読めます。志賀直哉の短編は、動作の記述が短く、形容の少ないことで知られています。夏目漱石は会話の合間に、人物の手や視線の動きをこまめに挟む。これは好みの問題というより、語り手が人物のどこに立っているかの違いです。内面に入れる語り手は動きを省略できます。外から見るしかない語り手は、動きに頼るほかない——省略できるかどうかが、文体の見た目を決めている。戯曲のト書きが動作だけを書いて心情を書かないのは、上演という形式が内面への直通路を持たないからで、小説はその制約を選ぶことも捨てることもできます。

二十世紀後半に映像が普及したことで、読者の側の訓練も変わりました。動きから内面を読む作業を、日常的に大量に反復するようになったからです。その結果、説明を添えずに動作だけを置いても通じる度合いが上がりました。現代のウェブ小説で「肩をすくめた」の一行が単独で成立するのは、この蓄積の上に乗っています。ただし通じやすさと陳腐化は表裏です。通じるのは、動作と意味が一対一に固定されたからでもある。固定された対応表は、読者の側でも数十個しか用意されていません。

外す手は二つあります。ひとつは、動作をその場面の物に結びつけること。手にした湯呑みの縁を親指でなぞる、という書き方には、湯呑みがある場所とその人物の手の癖が同時に入ります。物が固有であるぶん、対応表に載りようがない。もうひとつは、意味と動作をずらすこと。激しく怒っている人物に、読みかけの本を丁寧に閉じさせる。読者は対応表を引きに行って空振りし、そこで人物を見直します。型があるからこそ、型から外れた動きが届く。舞台の所作が型として成立していることと、小説の動作を新しく見せられることは、同じ仕組みの裏表なのです。

文: hakadoru.ai 編集部

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