祖母の家に、座面の革がすっかり艶を失った椅子が一脚あります。四十年ほど誰かが毎日腰を下ろし続けて、いまだに軋みひとつ立てない。これを丈夫な椅子だと言うとき、そこで述べられているのは何なのか。目の前で確かめられる事実は「まだ壊れていない」ということだけで、それ以上ではありません。にもかかわらず、この一語は明らかにそれ以上のことを言っている。ここが最初の引っかかりです。
哲学では、こうした性質を傾向性と呼びます。砂糖が水に溶けやすいという性質は、いま溶けている砂糖だけが持つのではない。棚の袋に入ったままの砂糖も、それを持っています。つまりこの種の述語は、現に起きていることではなく、条件が満たされたときに何が起きるかという条件文の束を指している。強い力を加えれば、湿気にさらせば、何度も曲げれば——そうした無数の仮定の下で、それでも壊れない。丈夫さとは、まだ試されていない事態についての主張なのです。
そこで手が止まります。試さなければ確かめられない性質を、なぜ人は平然と断定できるのか。実際の使われ方を見ると、根拠は過去の実績に置かれています。四十年壊れなかった椅子、一度も寝込まなかった子。しかし過去の記録は、条件文の束を保証しません。四十一年目に脚が折れる可能性は、論理としては何ひとつ排除されていない。この語を口にするたび、話し手は帰納の跳躍をひとつ踏んでいます。踏んでいる自覚はほとんどないまま。
程度副詞との相性も、少し考えると奇妙です。かなり丈夫、そこそこ丈夫、と段階をつけられる。傾向性が真か偽かの二値なら、この目盛りは何を刻んでいるのか。おそらく刻まれているのは、条件文が成り立つ範囲の広さです。どこまでの負荷まで壊れないか、その閾値が上下している。程度の表現は性質の濃さではなく、仮定の適用範囲を動かしている。そう考えると、この語は最初から量化された述語だったことになります。
自分の観察に異議を出しておきます。否定形を見ると、単なる予測とは違う顔が現れる。「壊れた」の否定は「壊れていない」で、これは状態の記述です。ところが「丈夫でない」は、壊れていることを意味しない。傷ひとつない新品を指してそう言うことができ、しかも矛盾していません。否定のスコープが状態ではなく傾向にかかっているからです。日常語がかなり精密に様相を扱っている、その証拠がここに残っている。
小説に置き換えると、扱いにくさの正体が見えてきます。傾向は画面に映らない。何も起きていない椅子は、ただの椅子として描写されるだけです。読者がその性質を受け取るのは、負荷がかかった一瞬だけ——大人が二人乗っても軋まなかった、というような。人物についても事情は同じで、打たれ強い性格を地の文で宣言しても、読者は帰納の材料を渡されていないので信じようがない。傾向を書くには、その傾向が試される場面をひとつ用意するほかありません。壊れかけて壊れなかった瞬間だけが、この語の証拠になる。