遊園地の乗り物には「絶叫マシン」という分類名があります。叫ぶことがあらかじめ織り込まれ、むしろ叫ばせることを目的として設計され、販売されている機械です。悲鳴が娯楽の対価になるという倒錯は、しかし近代に始まったものではありません。江戸期の見世物には化け物屋敷の系譜があったとされ、人を驚かせて声を上げさせる興行は、都市の娯楽として古くから成立していました。近代がそこに付け加えたのは、規模と、反復可能性と、そして安全の保証です。
この安全の保証という点が重要です。本物の危険にさらされた人の悲鳴は長く、統御を失っています。一方、ジェットコースターの落下やお化け屋敷の仕掛けで上がる声は短い。落ちないと分かっているから、驚きが通過した瞬間に声を切り上げられるのです。「きゃっ」という一秒に満たない形は、この——危険ではないと知りながら驚く——という近代的な体験の音写として磨かれてきたと見ることができます。悲鳴の長さは恐怖の深さを測っているのではなく、安全への信頼の厚さを測っている。短いほど、その場は守られています。
その保証は、気分の問題ではなく制度の産物です。遊具には定期の検査があり、興行には責任の所在があり、事故が起きれば補償の仕組みが動きます。客が短い声で済ませられるのは、支えている書類と点検記録の束を、いちいち意識せずに信用しているからにほかなりません。近代がしたのは、恐怖を演出したことではなく、恐怖の値段から危険を差し引いたことでした。危険と恐怖は、産業として切り離せる。切り離した残りが商品になったわけです。逆に言えば、この保証が薄い場所では悲鳴は短く終わりません。同じ落下でも、点検されていない足場から落ちる人は、声を途中で切り上げられないのです。検査や補償という言葉に色気はありませんが、短い悲鳴の原価はそこに積まれています。
二十世紀のメディアは、この短い悲鳴を大量に複製しました。ホラー映画の客席、ラジオやテレビの演出、そして漫画の吹き出し。とりわけ活字とコマの中では、悲鳴は音ではなく表記として様式化されます。長さ、濁点の有無、小書きの「つ」で詰めるかどうか。書き分けの体系が読者に共有されると、表記は実際の音声から独立した記号になっていきます。現実の人間が驚いたとき、必ずしもこの通りに発声するわけではありません。それでも小説の中でこの表記が問題なく通じるのは、百年分の娯楽装置と印刷物が、読者の側に共有の辞書を作ってきたからです。
様式化は、声の持ち主まで指定しました。仮名で三字、拍にすれば二拍のこの形は、印刷物の中で長く女性の驚きとして割り当てられてきた表記です。同じ場面の男性には、より低く太い音が当てられる。実際の声帯の違いを写したというより、誰がどう驚いてよいかについての約束事が、表記の水準に沈殿したものと見るのが自然でしょう。話し方の型から話者の属性が読み取れてしまう現象は役割語と呼ばれ、翻訳や吹き替えの言葉づかいを説明するときにもよく使われます。この二拍も、その一員です。だから現代の小説でこの表記を使うと、驚きだけでなく、その約束事の歴史まで一緒に持ち込むことになります。避けるにせよ使うにせよ、意識しておくだけの重さはある。同じ場面の同じ人物に別の表記で叫ばせてみると、持ち込まれているものの量が見えてきます。
商品化の系譜は現在も更新されています。お化け屋敷は怖さの度合いを等級で宣伝し、ホラーゲームの実況配信では、演者の悲鳴そのものが視聴の目当てになっている。叫ぶ姿を見せることが職能になった時代に、短い悲鳴は「怖がってみせる技術」の最小単位でもあります。悲鳴が本人の統御下にあるという近代の発明は、ここまで来ると芸の域に入っています。
創作への示唆は、この歴史の含意をそのまま使うことです。この声は、守られた場の悲鳴である。だから、本当に守られていない場面でこれを書くと、叫んだ当人がまだ事態の深刻さを理解していない、という情報になります。ホラーの序盤で軽く上がるこの声が不穏なのは、読者だけが保証の失効を知っているからです。逆に、日常の他愛ない驚きにはそのまま使えて、場の安全さを裏書きしてくれる。短さは恐怖の薄さではなく、後ろ盾の厚さの記録なのです。一秒に満たない声の背後に、安全という近代の発明が透けている——語の歴史は、そういう形で現在の用法の中に残っています。