おそらく

【おそらく】副詞

使い分けの視点

推量の副詞は、確率の目盛りというより、判断の出どころの分業です。願いや約束の文に乗れるのは「きっと」だけで、こちらは手元の根拠から結論を推す認識専用の語です。文末に推量の形式を呼び込み、文の両端で一つの判断を完成させます。三人称の語りが使えば、語り手の知識の限界の申告にもなります。

同義語

同品詞の類義語

たぶんcolloquial
きっと
さだめし文芸的
十中八九文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

見るところ
察するに文芸的
思うに文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

もしかすれば
蓋し文芸的
九分九厘文芸的

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

だろうエッセイ関連

例文: 彼は手紙の末尾に「届いているだろう」と書いた。「おそらく」は文頭に置いたまま、最後まで消さなかった。

推量エッセイ関連

例文: 推量は怠りではない、と老船長は航海日誌に書いた。書き手の知らない海を、書き手は書いてはならない。

七割の雨をどう言うか——推量の副詞と文末の共謀

天気予報が降水確率七十パーセントと告げています。この数値を会話に持ち込むとき、人は無意識に副詞を選んでいます。「たぶん降るよ」と言うか、「おそらく降るでしょう」と言うか、「きっと降る」と言い切るか。数値は同じでも、聞き手が受け取る確信の度合いと、話し手の立ち姿の印象は微妙に違います。意味論の目でこの語群を眺めると、単なる確率の目盛りの違いではなく、判断の種類そのものの分業が見えてきます。

まず、載せられる文の型が違います。「きっと来てね」とは言えるのに、「おそらく来てね」は成立しません。願いや約束の文に乗れるのは「きっと」だけです。つまり「きっと」は、確率の見積もりに話し手の期待や意志が混ざった語で、純粋な認識だけの語ではありません。一方こちらは、手元の根拠から結論を推すことに専念した認識専用の副詞で、期待を運びません。だから依頼にも励ましにも乗らないのです。「たぶん」はこの中間にいて、口語の広い場面を柔らかく覆います。同じ推量のようでいて、共起できる文型がずれている——この外形のずれが、内側の意味の違いを照らし出します。

文末との呼応も見どころです。「おそらく雨だろう」「おそらく間に合うはずだ」のように、この副詞は文末に推量の形式を呼び込む力を強く持ちます。断定で「雨だ」と切って結ぶ形も書き言葉では見かけますが、どこか座りが悪い。日本語学ではこうした語は古くから陳述の副詞と呼ばれ、文末の形式と呼応して一つの判断を完成させると説明されてきました。文頭で「これから推量をします」と予告し、文末で「しました」と締めるわけです。一つの判断が、文の両端に分かれて置かれる構造になっています。ちなみに「きっと明日は雨だ」のように、期待の語は断定形にも平気で乗ります。推量の枠に縛られるのは、認識専用の語のほうなのです。

では、これらを確率の高い順に一列に並べられるかというと、これが難しいのです。感覚的には「十中八九」が高い端、「もしかすれば」が低い端に来そうですが、中間の語どうしの大小は文脈次第でいくらでも揺れます。数値を内蔵しているのは「十中八九」だけで、これは八割から九割という区間をほぼ明示する希少な語です。残りは一本の確率軸の目盛りではなく、判断の出どころ——観察からの推論か、経験則か、願望混じりの見込みか——で分かれていると考えたほうが実態に合います。実際、文中の一語を「たぶん」に差し替えても、述べている事態の成立見込みはほとんど変わらないのに、話し手の顔つきだけが変わります。意味の核が確率値なら、こうはならないはずです。

小説では、推量の副詞は語り手の知識の範囲を申告する装置になります。三人称の語りがこの種の副詞を使えば、その語り手は人物の内心や未来を覗けない位置に立っていると読者に伝わります。全知の語りに推量は本来不要だからです。逆に、一人称の探偵が「十中八九」と言えば根拠を数え終えた自信が写り、「さだめし」と言えば古風な芝居気が写ります。文頭の三文字か四文字は、確率の報告である以前に、語る者と世界との距離の申告です。どの副詞を選ぶかを決めるとき、書き手は実は、視点の設計図の一部を引いています。

文: hakadoru.ai 編集部

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