実際の会話を録音して一字一句忠実に文字へ起こすと、たいていの人は自分の話し方に驚きます。言いよどみ、繰り返し、途中で捨てられた文——なめらかに話していたつもりの発話は、フィラーと呼ばれる埋め草だらけです。日本語の話し言葉を集めたコーパスの分析でも、「えーと」やこの語を含むフィラー類はきわめて高頻度の語群に入ることが知られています。話すという行為の統計的な実態は、話している本人の自己像から大きくずれている。
ところが小説の会話文を同じ目で数えると、フィラーの出現率は現実の発話より桁違いに低くなります。これは欠陥ではなく様式です。実際の会話を忠実に転写した台詞は、読むに堪えない。書き言葉の対話は、現実の発話の統計的性質を再現するのではなく、少量の記号で話し言葉らしさを喚起する圧縮表現なのです。落語家が扇子一本で蕎麦を食べてみせるのに似て、一箇所の言いよどみが、その場の口調の全体を代表します。
数える対象としてのフィラーには、機能の裏付けがあります。会話の分析では、この種の語は発話の順番を保持する信号と見なされます。沈黙は発話権を手放す合図に解釈されやすいのに対し、埋め草で音をつないでいる限り、まだ話し終えていないという表示になる。つまりフィラーの頻度は、その人がどれだけ考えながら話すか、どれだけ言葉を選んでいるかを映す変数です。台詞に混ぜる率を決めることは、その人物の会話への構えを決めることでもあります。感覚的には、改まった演説の場では別の埋め草が選ばれ、この形は対面の対話に寄る、という場面ごとの分布の偏りもあるように思われます。頻度だけでなく、どの場面で出るかまで含めて、フィラーは人物の社会的な位置を映す変数なのです。
計量文体論という分野は、文章の個性を数で捉えようとしてきました。よく知られた成果に、十八世紀アメリカの『ザ・フェデラリスト』論文集の著者推定があります。決め手になったのは内容語ではなく、前置詞や接続詞のような機能語の使用率でした。何を書くかは題材で決まるが、機能語の癖は本人にも制御しきれない指紋として残る。この発想を台詞に移すなら、フィラーはいわば会話の機能語です。登場人物ごとに使用率へ差をつければ、話す内容を一切変えなくても声が分離する。ひとりだけ言いよどみの多い人物は、性格の説明を一行も書かずに造形できます。
数えようとすると、表記の揺れが立ちはだかることも書き添えておくべきでしょう。同じ声が「あのー」「あのう」「あの……」と書き分けられ、長音符の本数まで含めれば形は際限なく増える。コーパス研究が最初に行うのは、この揺れをひとつの見出しに束ねる正規化の作業です。逆に小説の側から見れば、揺れは資源になる。長音符は間延びした逡巡、三点リーダーは言葉を探す沈黙、仮名の「う」はやや古風で丁寧な息づかい——どの表記を選ぶかで、同じ一語の持続と質感が変わります。数える者には雑音であるものが、書く者には道具になる。
技術の側でも、この語は数える者を悩ませてきました。音声の自動書き起こしの多くは、フィラーを検出して省く整形機能を備えています。議事録はそれで読みやすくなりますが、会話の研究者にとっては、消されては困る一級の資料が黙って捨てられていることになる。同じ音声から何を残して何を落とすかは、数える目的が決めるのであって、数そのものが中立に存在するわけではありません。数えるという行為の設計性を、埋め草ほどよく教えてくれる語は少ないでしょう。
長音符の本数は、モーラという単位の増減でもあります。一本増えれば一拍延び、行のテンポはそのぶん落ちる。一行の台詞に占めるフィラーの文字数の割合は、読者にはその人物の発話速度と逡巡の量として体感されます。ゼロなら不自然に流暢な人物になり、高すぎれば読みにくさが勝つ。どの水準に設定するかは、感覚の問題であると同時に、比率という一個の数値パラメータの設計でもあります。数えられるものは、設計できる。書き起こしの中の埋め草は、そのことを教えてくれます。