飼い犬が足元で顔を上げ、こちらをじっと見上げてくる。その目を訴えるようだと書くのは、ほとんど反射に近い選択です。犬は何も言っていません。散歩に行きたいのか、皿が空なのか、ただ近くにいたいだけなのか、見ている側には分からない。分からないまま人は一つの解釈を選び、その解釈を言葉の側の語彙で書きつけます。言葉を持たない相手に向けたときにこそ、この言い方は迷いなく伸びる。乳児にも、動物にも、写真の中の人物にも使えて、しかも使った瞬間に、相手が何かを言いたがっていたことにされてしまいます。
この言い方が置かれる場面を並べていくと、対象はたいてい二つに絞られます。視線か、声か。訴えるように見上げる、訴えるような声、訴えるように手を伸ばす。共通しているのは、そこで実際に何かが言われたわけではないことです。言葉になっていない振る舞いを、言葉の側のカテゴリーで受け取っている。目が語る、沈黙が叫ぶ、背中が物を言う——同じ作りの表現が日本語にはいくつもあって、どれも発話を源にして非発話を捉えています。身体の動きを言う語彙が足りないから借りているのだ、という説明もできますが、それだと借り先が発話にばかり偏る理由が出てきません。歩き方や手の位置を言う語は十分にあるのに、意味を担わせたい場面になると、書き手はほぼ例外なく発話の側から借りてくる。
認知言語学では、こういう捉え方を、ある領域の構造を別の領域へ写す働きとして扱います。この場合の源は発話行為の領域で、写される先は身体の振る舞いです。写像で運ばれるのは語の意味だけではありません。源の領域が持っていた関係の形、つまり誰が誰に向かって何をするのかという骨組みも、一緒に付いてくる。だとすれば、源のほうを先に見ておく必要があります。
もとの動詞は、訴え出るという使い方が示すとおり、裁く立場の者へ向かう行為です。語源については複数の説があって確定していませんが、少なくとも歴史的な用法の中心に、上位の者へ申し立てるという形があったことは動きません。申し立ては対等な者どうしでは成り立たない。受け手が判断を下せる位置にいて、はじめて成立する行為です。その非対称が動詞の骨に入っている。五感に訴える、良心に訴える、という現代の言い方にも同じ形が見えます。訴えられた側は、受け取るかどうかを決める権限を持った審級として置かれている。
法廷から遠い場所にも、同じ配置は残っています。診療の場では、患者が最初に述べた困りごとを主訴と呼び、記録の冒頭に書きつけます。頭が痛い、眠れない、力が入らない。述べる側は自分の状態を申し立て、聞く側はそれを検査値や所見と突き合わせて、どう扱うかを決める。痛みは本人にしか感じられないのに、その扱いを決める権限は受け手の側にある。広告の世界で使われる訴求という漢語も同じ形で、買うかどうかを決めるのは受け手であり、送り手は判断を仰ぐ側に回っています。この動詞は専門語として制度に取り込まれるとき、申し立てる者と裁定する者という配置を、必ず一緒に持ち込んでいる。
ここで一度、自分の観察を疑っておきます。非対称が残っているなら、この言い方は下から上を見る姿勢と結びつくはずだ、と考えたくなる。実際、上目遣いと組み合わされる例は多い。しかし訴えるように空を仰ぐ、という書き方も成り立ちます。この場合、視線は上へ向かっているのに、構図としては同じものに読める。つまり縛られているのは視線の上下ではなく、受け手が裁定の位置にいるということのほうです。空も、返事をしない裁定者として置かれている。反例のほうが構造を確かめてくれた。
そうすると、この表現を使える場所は自然に限られてきます。二人の関係を対等に描いてきた場面でこれを差し込むと、片方が黙って下がる。書き手が意識していなくても、読者の側では力の傾きが記録され、あとの場面でその記録が効いてきます。逆に言えば、傾きを一語で作りたいときには使える。頼んでいるのではなく、判断を仰いでいる。その差を説明せずに置けるのが、この言い方の働きです。使いすぎたときに何が起きるかも、同じ理屈から予想がつきます。同じ人物に二度、三度と付ければ、その人物は裁定を待つ側に固定され、場面ごとに変わるはずの力の向きが平らになる。一度だけ置いて、あとは視線の向きや語尾で処理する。そのほうが、一度の傾きは長く効きます。