彼は孤独だったが、寂しいとは思っていなかった。この一文は矛盾しません。順番を入れ替えて、彼は寂しかったが孤独ではなかった、としても通ります。二つの語が同義なら、どちらの文も破綻するはずです。破綻しないということは、指しているものがずれている。どこがずれているのかを、少しずつ絞ってみます。
時間語との組合せにも差が出ます。一時間ひとりだった、は人数を報告しますが、一時間だけ孤独だった、は関係の断絶を評価している。電話を待つ、会話から排除される、といった文脈で状態の輪郭が立ちます——人数だけでは判定できません。
まず話者との関係が違います。寂しいは感情を直接述べる形容詞で、日本語では、この種の語を現在形のまま三人称に使うのは難しい。彼は寂しがっている、と一段挟むのが自然です。この名詞にはその制限がありません。彼はひとりだ、と外から言い切れる。つまり寂しいは体験の記述であり、この名詞は状態の記述だということになります。冒頭の文が矛盾しないのは、状態と体験が別の層にあり、片方だけを否定できるからです。
「この状態を感じる」「それに耐える」と動詞を添えれば、外から記述できる状態と本人だけが知る経験を橋渡しできます。単独の「だ」より、感情の担い手が明確です。
意味の内部にも段があります。この語には、関係が欠けているという客観的な状態を指す用法と、その状態に伴う感情を指す用法がある。後者を取り出すために孤独感という語が別に用意されていることからも、中心は前者の側にあると考えられます。字の側から見ても同じ方向を向いていて、孤はみなしごを指す字、独はひとりを指す字です。どちらも数を数えているのではなく、あるべきものが欠けていることを言っている。独りは頭数の問題ですが、孤独は欠如の判断を含んでいる。
「感」を添えた複合語は、環境の事実から受け手の知覚へ焦点を移します。その結果、満員の車内でも成立し、無人の部屋では生じない逆転を書けます。
ここで自分の整理に異議を出します。欠如の判断が含まれるなら、この状態はつねに否定的なはずです。ところが、ひとりを選ぶ、豊かな孤独、といった言い方が普通に成立している。欠如が肯定に転じている。よく見ると、転じる条件がある——その状態が本人の意志によるものだと分かったときです。同じ欠如でも、原因が外にあれば剥奪になり、内にあれば選択になる。含意は語彙に固定されておらず、原因の帰属先で切り替わっている。ここは辞書の記述からは落ちやすい部分です。
自ら選んだ状態でも、途中から苦痛へ変わることはあります。選択か剥奪かを人物の恒久的な性質にせず、いつ、誰が、やめられるかを文脈へ置く必要があります。扉を閉めた本人が開けられるのか、外から鍵を掛けられたのかでは、同じ一人でも意味が違います。
書くときに効いてくるのは、この分岐です。この語を書いた次の文で、書き手は自分がどちらを書いたのかを申告することになります。状態を書いたのなら、続けて外側の描写を置ける——部屋の様子でも、他人からの見え方でもよい。感情を書いたのなら、視点はその人物の内側に固定され、外へ戻るのに一手かかります。さらに、意志によるものかどうかを一行でも示しておけば、読者は肯定と否定のどちらで受け取るかを決められる。示さなければ、読者は文脈からいちばん近い解釈を勝手に選びます。選ばせるのか、指定するのか。その判断だけは語には委ねられません。
欠けた対象を一つ示せば、状態語から次の動作へ移れます。話し相手、帰属集団、理解される手応えのどれなのかを、語の外側で選ぶのです。