明るくなるときにも、消えるときにも、同じ副詞を置くことができます。灯りが点く場面と、灯りが落ちる場面。生じることと失われることは、意味の上では正反対のはずですが、この語は両方を受ける。多義の語は珍しくないにしても、反対方向の事象を同じ形で引き受ける例は、それほど多くありません。しばらくこの点をつついてみたくなります。
共通しているものを取り出そうとして、最初に思いつくのは速さです——ただ、速さだけでは足りない。同じくらい速い変化でも、この副詞が付かないものがある。試しに、錆びる、痩せる、冷める、といった動詞に付けてみると、どれも収まりが悪い。これらは速度を上げても段階を踏む変化だからでしょう。この語が要求しているのは、速さというより、中間状態が存在しないこと。前と後だけがあって、途中がない。灯りは点いているか消えているかのどちらかで、半分点いた状態を人は普通、見ていない。
もうひとつ、視覚に偏っている点も外せません。音が急に止んでも、この副詞は少し落ち着かない。開く花、走る火、広がる染み——どれも目に入る変化です。この語の中心にあるのは、視野の中の何かが一挙に別の状態に置き換わる経験なのだと思います。そこから、目立つ、という枝が伸びる。派手な色、人目を引く身なり。ここまでは自然な意味の拡張に見えます。
ところが、その枝は妙な形で残りました。目立つ意味の用法は、否定形でしか安定しない。ぱっとしない成績、ぱっとしない見た目。肯定形で「ぱっとした」と言おうとすると、口の中で止まります。否定と組んだときだけ生き延びる語は、日本語にいくつかあり、否定極性項目と呼ばれます。ただ、完全にそう言い切ってよいかは怪しくて、肯定寄りの形が慣用の中に残っている気配もある。枝がまるごと否定に移ったのではなく、幹の側の用法は健在なまま、目立つ意味の枝だけが片側へ傾いた、と見るのが実態に近そうです。ひとつの語の中で、意味の枝ごとに文法的なふるまいが違う。
枝分かれの形をもう少し確かめようとして、近い意味を持つ他の副詞と入れ替えてみました。単に速いことを言う語に差し替えると、点灯の場面はほぼそのまま通りますが、目立たないという意味の否定表現には移せない。逆に、一瞬であることを強調する語を入れると、速度は伝わっても、視野が切り替わった感じが消える。ひとつの語が担っている仕事は、速度、視覚性、中間の欠如、そして目立ちの評価という四つに分かれていて、他の語はそのうち一つか二つしか引き受けてくれない。多義の語を言い換えで置き換えられないのは、意味が曖昧だからではなく、束ねている成分の組み合わせが固有だからだと言えそうです。
書く側にとって重要なのは、この副詞が中間を消す装置だという点でしょう。使えば、変化の過程は書かれません。前の状態と後の状態の落差だけが読者に渡り、その間に何があったかは省略される。省略してよい変化か、そこを見せるべき変化かの判断が先にある。人が表情を変える場面でこれを使うと、変わり目が消えて、別人が現れたような効果になります。それを狙うなら正しく、細部の推移を見せたいなら誤りです。同じ一語が、出現と消失の両方を担えるのは、どちらの場合も途中を見せないという一点で、仕事の中身が同じだからだと考えられます。