「のどかな一日」「のどかな村」は自然に書けるのに、「のどかな人」と書くと手が止まります。文法的には何も壊れていない。ナ形容詞として、連体では「な」を取り、述語では「だ」を取り、副詞的には「に」を取る。活用のうえで人を排除する仕掛けはどこにもありません。それでも、人に付けた途端に文が妙な角度を向く。この傾きがどこから来るのかを考えると、語尾の一拍に行き当たります。
同じ形を持つ語を集めてみます。静か、豊か、厳か、細やか、朗らか。語幹に「か」が付いて状態を表すこの型は、日本語にかなりの数がある。並べて眺めると、共通の性質が見えてきます。どれも、対象の内側の事情ではなく、外から眺めたときの佇まいを述べている。静かは音がしないという外形の記述であって、その場が静けさを内心で感じているわけではない。豊かも、外から見て満ちている状態を言う。内面を言う形容詞——悲しい、嬉しい、心細い——とは、明らかに立ち位置が違う。この型はもともとイ形容詞とは別系統の活用を持っていて、古い段階では「のどけし」というク活用の形容詞も併存していました。百人一首でよく知られた一首は、その連体形を「光」に掛けています。人ではなく、春の日の光に。語形が入れ替わっても、掛かる先の性質のほうは持ち越されているように見えます。
文法の側には、内と外を仕分ける手続きがいくつか用意されています。分かりやすいのは接尾辞「がる」です。悲しがる、嬉しがる、寒がる、欲しがる——内面を言う形容詞は、他人の内側を外から推し量る形をこうして作れる。ところが「静かがる」「豊かがる」は成り立たず、この語も同様に受け付けません。作る必要がないからです。外から見えている状態を、わざわざ外から推し量る形に直す意味がない。人称の制約も同じ方向を指しています。感情の形容詞は「彼は悲しい」と言い切りにくく、「悲しがっている」「悲しいらしい」と直す必要が生じますが、「あの村はのどかだ」にそうした断りは要りません。証拠が自分の内側にあるか、目の前にあるか。文法はその違いを、活用と接辞のふるまいとしてきちんと記録しています。
この観察を戻すと、人に付きにくい理由が説明できそうに見えます。外から眺めた佇まいを述べる語を人に向ければ、その人を風景として扱うことになる。「穏やかな人」なら性質の記述として通るのに引っかかるのは、後者が相手を眺められる対象の側に置いてしまうからだ、という筋書きです。
ところが、ここで自分の説明に反例を出さなければなりません。「のどかな人だね」は、実際に使われます。細かいことを気にしない、危機感の薄い人物を指す軽い揶揄として。禁じられていたのではなく、使えば揶揄になる、というだけのことでした。とすると、規則違反ではなく規則の帰結です。人を風景として扱う語を人に向ければ、その人は場の一部に格下げされる。褒めているようで褒めていない、あの微妙な温度は、語の型がそのまま出たものだと考えられる。同じ構図は「気楽な人」や「暢気な人」にも見えますが、あちらは当人の心の持ちようを名指しているぶん、揶揄の的が絞られている。こちらは的が絞られないまま、その人のいる空間ごと評してしまう。
もう一つ、この語には活用上の使いにくさがあります。副詞形の「のどかに」が、動作にほとんど掛からない。「のどかに歩く」は、書けるけれども言い当てていない感じが残る。状態の外観を述べる語なので、動作の様態を修飾する位置に置くと居場所がない。実際に自然なのは「のどかに晴れている」のような、状態を述べる述語との組み合わせです。「静かに歩く」が問題なく通ることと比べると、同じ型の中でも語ごとに副詞化の適性が違うことが分かる。静かは音量という、動作に付随して観測できる量を持っているのに対し、こちらが述べているのは場全体の状態で、一人の動作に切り分けて割り当てられないからでしょう。
書く側の判断としては、連体で使うのが基本線になります。そして、その連体修飾が指す先を選んだ時点で、語り手の距離が決まる。土地をこう形容すれば、語り手はその土地の外にいる。住んでいる人物の視点で書くなら、この語は出てこないはずです。田園を描くときに手が伸びやすい語だからこそ、伸ばす前に、いま誰の目で見ているのかを確かめる価値があります。連体修飾の一語は、修飾先だけでなく、見ている位置まで指定してしまう。