「この塔は高い」を英語に移すとき、tall と high のどちらを選ぶかで、文の焦点がずれます。tall は地面から立ち上がっている物の全長を言い、high は地面からどれだけ離れた位置にあるかを言う。塔はどちらでも成立し、雲は high としか言えず、人については tall しか使えません。同じ「上のほう」を指す語が、対象の性質によって二つに割れているわけです。日本語はこの区別を持ちません。全長も位置も、ひとつの形容詞が引き受けている。訳すときに迷いが生じるのは、日本語の語彙が粗いからではなく、割り方の違う二つの体系を突き合わせているからです。
構文の側にも差があります。英語は人を主語にして he is tall と言えるのに、日本語では「彼は背が高い」と、背という部位をいったん立ててから測る。測定対象を明示してから尺度を当てる、という手続きを踏むわけです。この癖は値段の話に移るともっと目立ちます。「値段が高い」は the price is high でよいのに、「この本は高い」を this book is high とは言えず、expensive という別の語が要る。英語では、尺度そのものを主語にするか、尺度を持つ物を主語にするかで語彙が切り替わる。日本語にはその切り替えがなく、本にも値段にも同じ語を当てられます。韓国語も 높다 と 비싸다 で分かれ、中国語も 高 と 贵 が別の字です。価格の高さを空間の高さと同じ語で最後まで言い切れる言語のほうが、周辺を見渡すと少数派に見えます。
ところが、反対語の側を見ると日本語も一枚岩ではありません。空間の反対は「低い」ですが、値段の反対は「安い」であって、「この本は低い」とは言えない。肯定側は一語で通せるのに、否定側では二語に割れている——同じ尺度でも、上と下で分節の細かさが違う。尺度形容詞の対は必ず対称になるはずだ、と考えたくなりますが、実際にはこういうねじれが平気で残ります。翻訳で困る箇所は、たいていこの非対称の縁にある。
音の高さも同じ空間比喩に見えて、これが普遍だとは限りません。古代ギリシャ語では、音の高さを鋭さと重さで呼び分けていました。今日のアクセント記号がアキュート(鋭)とグレーブ(重)という名で呼ばれているのは、その名残です。高低の軸で音程を語ることは自然に感じられますが、鋭さと重さの軸で語る体系も現に存在した——上下は、選ばれた比喩のひとつであって、唯一の選択肢ではない。一方で抽象的な領域に入ると、逆に言語間の一致が増えます。可能性が高い、地位が高い、熱が高い。いずれも英語で high を使って言える。分岐が起きるのは具体物を測るときで、抽象度が上がるほど語彙の切れ目が揃っていく。翻訳者が手を止めるのは、議論の箇所よりも、塔や本や声といった目の前にある物を測る場面です。
書き手の側から見ると、訳しにくさはそのまま使い勝手になります。一語で複数の尺度を渡れるので、意図的に決めずに置ける。「彼の望みは高すぎた」と書けば、高度なのか高価なのか、日本語は最後まで決定しません。ただし決めずに置ける利点は、決めなければならない場面で欠点に転じます。会話文で「高いですね」とだけ言わせると、値段か背丈か位置か音か、読者は前後を探しに行く。台詞の一つ前の行に、値札か天井かのどちらかを置いておく。尺度の手がかりを先に渡しておけば、この語はどこまでも伸びます。