脱稿した長編の原稿で、力を込める動作を検索にかけてみると、思いがけない集計結果が出ることがあります。「ぎゅっと抱きしめた」「ぎゅっと握った」「唇をぎゅっと結んだ」。一作に十数回という数字も珍しくありません。書いている最中には気づかない。一語ずつはどれも正しく機能しているのに、集計してはじめて依存が見えるのです。推敲で原稿全体を検索した経験のある書き手なら、覚えがあるはずです。
依存には理由があります。この語は、力の強さ、動作の速さ、そして意志の存在という三つの情報を一拍で運ぶ、きわめて効率のいい副詞です。オノマトペ全般が持つ直接性——説明を経由せず感覚に届く性質——の中でも、この語は身体の接触や緊張の文脈で突出して守備範囲が広い。抱く、握る、掴む、閉じる、結ぶ、目をつぶる。効率がいいからこそ手が伸び、手が伸びるからこそ摩耗する。つまり問題は語の質ではなく、資源配分にあります。
摩耗がいちばん進んでいるのは、しかし身体接触の側ではありません。胸がぎゅっとなる、心臓を掴まれたようだ、といった内臓感覚の比喩のほうです。腕や指の動作なら、読者は自分の身体で再現できます。ところが胸の内側の締めつけには、実際の接触がない。読者は比喩の元になった動作をいったん思い浮かべ、それを内臓の感覚へ翻訳する手間を負わされます。しかもこの型は感情の山場に集中して現れるので、一作の中で用途が重なりやすい。推敲で削る順序を決めるなら、比喩用法から当たるのが効率的でしょう。動作の側は情報を運んでいますが、比喩の側は情報の前に感情のラベルを渡してしまう。読者が自分で感じ取る手前で、感じるべきことを先に告げているわけです。
対処の第一歩は、削ることではなく分解することです。この語が運んでいた三つの情報を、別の経路で運べないか検討する。強さは、受け手の感覚に移せます。肋骨がきしむ、腕の中で息が詰まる、指の食い込みが翌日まで残る。速さは、前後の文のリズムに移せます。直前の文を短く切れば、動作は自然に速く見える。意志は、動作の手前の描写に移せます。一度ためらってから腕を回したのだと書けば、力の強さを言わなくても、読者は強さごと受け取ってくれます。
ただし、すべてを移し替えるのが正解ではありません。分解した書き方は情報量が多いぶん、どうしても文が遅くなります。物語の速度を落としたくない場面、説明を切り詰めて感情だけを残したい場面では、一語の直接性がやはり最短です。考えたいのは頻度の設計で、たとえば感情の頂点にあたる一場面にだけこの語を残し、それ以外の接触は別の経路で書く。すると読者は、意識しないまま密度の差を感じ取り、残された一語がその場面の目印として働きはじめます。全編に均等に撒かれた語は背景に沈み、一箇所に絞られた語は前景に浮く。
配分と並んで効くのは、誰の知覚として書くのかという判断です。この語は原理的に、外から見た形の描写になります。抱きしめている当人は、自分の腕の動きをこの副詞では感じていない。当人が感じているのは布越しの体温であり、相手の肩甲骨の硬さであり、自分の指がどこで止まったかです。一人称の語りや、視点人物に密着した三人称でこの語を置くと、そこだけカメラが半歩後ろへ下がる。距離を取りたい場面なら、その引きはむしろ有効に働くでしょう。厄介なのは、密着したまま書きたい場面で無意識に使ってしまう場合です。視点の一貫性というものは、大きな破綻ではなく、こうした一語ずつの後退によって削られていきます。抱かれる側の視点なら事情はさらに変わり、外から見た形はそもそも見えず、圧力と時間だけが残ります。誰の身体に貼りついて書くかを決めてから語を選べば、選択肢は自然に絞られていくはずです。
もうひとつ、地の文と会話文で扱いを分ける手があります。この語は幼児語に近い親密さを持っていて、会話の中では「ぎゅっとして」という依頼の形で、人物の甘えや無防備さを一語で示せます。地の文の描写語としては摩耗していても、台詞の中では人物の声として生きる。同じ語でも、置き場所によって新品にも中古にもなるわけです。オノマトペは日本語の描写の大きな資産で、使わないという縛りは、たいてい文章を痩せさせるだけに終わります。必要なのは禁止ではなく台帳です。どの場面で、誰の動作に、何回使ったか。数えること自体が抱擁の場面をひとつずつ読み直す作業になり、その読み直しの中で、この語でなければならない一回が自然に決まっていきます。