同じ語の表記が三つ並ぶことがあります。幼馴染、幼なじみ、おさななじみ。読みは変わらず、意味も変わりません。それでも紙の上に置いたときの重さは揃わない。一つ目は塊として目に入り、三つ目は音が先に立つ。二つ目はその中間で、実務ではこれが最も多く使われている印象があります。表記の選択が意味を変えないのに印象を変えるという事態は、考え始めると意外に扱いにくい。
制度の側を確認すると、事情の一部は説明がつきます。常用漢字表は「幼」に訓「おさない」を認めており、送り仮名の付け方の本則は活用語尾を送ることなので、単独の形は迷いません。ところが複合語になると慣用が入り込みます。「幼馴染」では送り仮名が完全に落ち、「幼な妻」のような形では「な」が残る。この「な」は活用語尾ではなく、語幹が直接名詞に付く古い複合のかたちの名残と説明されます。つまり三表記の並存は書き手の気分の問題ではなく、単独形の規則と複合形の慣用が別の原理で動いていることの帰結です。
同じ字の別の顔も関わってきます。音で読めば幼児、幼少、幼稚園。これらは年齢区分や制度に属する語彙で、書類にも載る。訓で読んだ形は、人がその人を眺めたときの感じ方に寄ります。一つの字が、行政の文書に並ぶ漢語の層と、地の文で人物を描く和語の層を同時に抱えている。しかも「幼な心」「幼な顔」のように語幹が直接名詞に付く形は、音読みの側ではまず作れません。どちらの層から引くかで、同じ字が制度の語にも情感の語にもなる。表記の選択は単発では成立せず、必ず作品全体の水準との比較で読まれます。
実務の現場には、告示とは別の規範がもう一枚あります。新聞社や出版社が独自に持っている用字用語の基準です。表外訓を避ける、ある種の複合語では送り仮名を落とす、といった判断がそこで決められていて、媒体ごとに細部が違う。書き手が三つの表記のあいだで迷うのは、規則が一つに定まっていないからではなく、規則が複数の層に分かれて同時に効いているからでした。国が示す本則、慣用として残った形、媒体の内部基準。この三層は矛盾するというより、それぞれ守備範囲が違う。どれに従うかを決めるのは、最終的には作品が置かれる場所です。
ここで一度立ち止まります。仮名書きは子供の視点に合う、という説明はよく聞きます。子供の一人称なら漢字を減らす、という指針も広く行われている。しかし当の子供が読む本には、学年に応じて漢字が使われています。仮名が幼さの記号だというのは、書き手の側の思い込みに近い。実際に仮名書きがしているのは、視線を止めずに音を通すことです。速く読ませたい箇所では仮名が有利で、意味の塊として一瞬で掴ませたい箇所では漢字が有利——ただそれだけの話で、年齢とは本来関係がない。
そう考え直すと、判断の基準は一つに絞られます。表記を統一するために決めるのではなく、その語り手が漢字をどう扱う人物かを決めるために選ぶ。手紙を書き慣れた人物の地の文と、話し言葉のまま書き取られたような地の文では、同じ語の表記が揃わなくても構いません。揃っていないことが目立つのは、揃えるべき理由が読者に見えないときだけです。作中の表記ゆれが問題になる理由は、規則違反よりも、語り手が誰なのか分からなくなることにあると思います。