工事現場の入口に、無災害記録の継続日数を示す板が掲げられていることがあります。数字は毎朝ひとつ増え、何かが起きた日にゼロへ戻る。板が数えているのは、起きなかったことの日数です。起きなかったことは、それ自体としては出来事ではありません。写真にも撮れず、報告書にも書けない。それでも板の上では、無いことがきちんと累積して、目に見える量になっている。無いものを数えるには、あらかじめ何が無いのかを一つに決めておく必要がある——この現場の板は、それを日付の形で毎日確認しています。数える対象が決まらないかぎり、無事は無事として計上されません。
ある概念を「Pでない状態」としてしか定義できないとき、その概念は否定という演算に寄りかかっています。健康は病気でない状態、無罪は有罪でない状態、そしてこの語は、しばしば戦争がない状態として説明される。否定による定義には便利さがあります。Pの側さえ特定できれば、残り全部が自動的に確保できる。しかし引き換えに、その語は自前の内容を持たないまま流通することになります。輪郭は明確でも、中身は空欄のままです。
空欄の大きさを決めるのは、否定がどこまでかかるか——論理でいう作用域です。「戦争がない」の「ない」が、国家間の武力衝突だけを覆っているのか、内戦や武装勢力の抗争まで含むのか、さらに構造的な暴力や貧困まで含むのか。作用域の取り方によって、同じ地域について同じ文を述べても、真になったり偽になったりする。議論が噛み合わないとき、双方が別の作用域を採っていることは珍しくありません。しかも作用域は文面に現れないので、書き手も読み手も自分がどれを採っているか自覚しないまま進む。
否定で説明されるのに、語そのものは否定の成分を含んでいません。平らであること、和らいでいること——二字とも肯定的な内容を持つ字で、打ち消しの要素はどこにもない。同じ領域を指す「無事」が否定辞を字面に抱えているのとは対照的です。「平定」「和議」のように、この二字はそれぞれ別の熟語では動きのある事態を指しますが、この組み合わせに限っては、動きの止まった状態の名になる。字面は肯定、定義は否定という、このねじれが扱いにくさの一因になっている。肯定的な字で書かれているせいで、この語は何かが在る状態を指しているように見え、いざ中身を問われると、無いものの側からしか答えられない。
述語の裏側には、しばしば言われないままの前提が積まれています。「平和が戻った」と言えば、以前にそれがあったことが前提として運ばれる。この種の前提は、文を否定しても消えません。「平和は戻らなかった」と述べても、かつてあったという含みのほうは生き残ります。否定の作用域が及ぶのは、主張された部分だけで、前提の部分には届かないからです。だから、どの動詞と組ませるかは中立な選択ではありません。戻る、訪れる、続く、保たれる——それぞれが別の歴史を前提として持ち込み、書き手が明示的に述べなかった過去を、読者の側で勝手に確定させてしまう。訪れる、と書けば以前は無かったことになり、保たれる、と書けば誰かが支えていることになる。どちらも主張として述べられていないので、読者は反論する足場を持たないまま、その過去を受け取ります。前提は、否定を通り抜けるぶんだけ、主張より強く残る。
さらに厄介なのは、論理の述語が真か偽かの二値であるのに対し、この語が明らかに段階を持つことです。砂粒を一粒ずつ取り除いても砂山は砂山のまま、しかしいつかは砂山でなくなる——境界の引けない述語をめぐる古典的な難問と同じ構造が、ここにも現れます。停戦中の国境、散発的な衝突、緊張下の均衡。どこからが該当し、どこからが該当しないのかを決める線は、原理的に引けない。だからこの語は、事実の記述としてよりも、線をどこに引くかという判断の表明として機能してきました。
物語の結末が「そして平和が訪れた」で閉じられると、多くの読者はそこに何も受け取りません。理由は感傷の不足ではなく、情報量の不足です。否定による定義は、除かれたものを指すだけで、残ったものについて何も言わない。書くべきなのは、無くなったほうではなく、無くなった後に置かれるものです。閉じていた市が立ち、値切る声が通りに戻る。子どもが夜まで外にいる。裁判所に順番待ちの列ができる。存在文で書けるものを三つ挙げられれば、否定文は一つも要らなくなります。