折れ線グラフが水平に近いとき、そこには少なくとも二つの異なる事情がありえます。一つは、平均の水準が時間とともに動いていないこと。もう一つは、各時点の値が平均のまわりで小さくしか揺れていないこと。この二つはよく混同されますが、別物です。前者だけが満たされて後者が満たされない線は、平均こそ一定でも、上下に大きく暴れている。この語が名指しているのは、明らかに後者のほうです。
統計の言葉でいえば、前者が平均、後者が分散にあたります。平均が同じでも分散が違えば、そこで営まれている生活はまったく別のものになる。月ごとの収支が毎月ちょうど釣り合っている家計と、大幅な赤字と黒字が交互に来て年間では釣り合っている家計は、平均値だけを見れば区別がつきません。統計的な性質が時間をずらしても変わらない過程を定常過程と呼びますが、定常であることと揺れが小さいことも、やはり別条件です。定常でありながら激しく揺れ続ける過程はいくらでもある。この語が要求しているのは、定常性ではなく振幅の小ささのほうだと言えます。
ただし分散だけでも足りません。分布の端——裾と呼ばれる部分——の厚さが効いてきます。三百六十日が静かで、残る五日に取り返しのつかないことが起きる年を、誰も穏やかな年とは呼ばない。逆に毎日が少しずつ落ち着かないだけの年は、平均的な不快の総量が同じでも、そこまで悪くは記憶されない。つまりこの語が問うているのは期待値ではなく、最悪値に近い。稀にしか起きないが起きたら大きい事象を扱う統計の分野を極値統計といいますが、平穏とは、極値が観測されなかったという事後的な報告なのだと考えると、日常語の使われ方によく合います。
事後的な報告でしかない、という点はもう少し踏み込む価値があります。稀な出来事が互いに独立に、一定の割合で起きる過程を仮定すると、次の一件までの待ち時間は、それまで何日無事だったかに依存しません。無記憶性と呼ばれる性質です。この仮定が当てはまる範囲では、静かな日が千日続いたという事実は、千一日目について何も語らない。にもかかわらず、人は続いた日数を安全の証拠として読みます。安心とはこの読み違えの別名だとも言えて、日常語がその読み違えを咎めないのは、たぶん咎めても仕方がないからでしょう。もちろん、現実の出来事はいつも独立とはかぎりません。設備の劣化や関係のこじれのように、無事の裏で危険が蓄積していく過程では、続いた日数はむしろ悪い知らせになります。同じ静けさが、仮定の置き方ひとつで安全の証拠にも危険の指標にも読める。どちらであるかは、静けさの側をいくら眺めても決まりません。
和語の「おだやか」と並べると差が出ます。おだやかは程度を表し、比較級を作れる。より穏やかな海、少し穏やかになった口調。ところがこちらは、比較にあまり馴染みません。より平穏な一週間という言い方は不可能ではないものの、どこか収まりが悪い。閾値を越えたか越えないかの二値に近い扱いを受けている——連続量である分散を、人間は境界のある状態として言語化しているわけです。おだやかが海にも口調にも降りていけるのに対し、こちらが日々や時代といった時間の幅にしか付かないのも、二値の判定が一定の観測期間を前提にするからだと考えられます。
推定という観点からも、この語は不利な位置にあります。標本から平均を見積もるのは比較的たやすく、少ない観測でもおおよその値に近づきます。ところが分散を同じ精度で見積もろうとすると、必要な観測の数は跳ね上がる。散らばりを測る量は、それ自体が大きく散らばるからです。揺れの小ささを主張するには、揺れの大きさを主張するよりも多くの証拠が要る。何も起きなかったことの立証が、何かが起きたことの立証より難しいのは、この非対称の言い換えでもあります。
書く側にとっての難所は、ここから出てきます。分散は一点のサンプルからは推定できません。値が一つあっても、それが揺れの中心なのか端なのかは判定できない。だから平穏な日々を一場面で描こうとすると、たいてい失敗します。静かな朝を丁寧に一度描いても、読者にはその朝が例外なのか常態なのか分からない。この状態を伝える手段は、原理的に反復しかない。同じ時刻の同じ朝食、同じ道順、同じ挨拶を二度三度置き、三度目にわずかな差だけを変える。読者はその三点から分散を推定します。そして四度目に大きく外れた値を置いたとき、はじめてそれまでの三点が何だったかが分かる。