注いでから三十分置いた茶を英語にする、という作業を考えます。lukewarm tea か tepid tea が候補に挙がる。どちらも英和辞典が「ぬるい」を返す語で、どちらも積極的な響きではありません。warm tea では駄目なのかというと、駄目です。warm は快い温かさを指してしまう。日本語のこの形容詞も、ほぼ常に不満を含んでいる。ここまでは対応が取れていて、翻訳は成立しているように見えます。
温度帯のほうも、意外と揃っています。熱いはずのものが下がった状態にも、冷たいはずのものが上がった状態にも使える。ぬるい湯とぬるいビールは、絶対的な温度がまるで違うのに同じ語で処理される。lukewarm も tepid も、同様に基準からの逸脱として働く語です。つまりどちらの言語も、中間の温度そのものではなく、あるべき温度からのずれを名指している。ここで訳が破れるはずがない、と一度は思いました。
破れるのは比喩に移ったときです。日本語で「対応がぬるい」「あの部署はぬるい」と言えば、厳しさが足りない、詰めが甘い、という対象への評価になる。ところが a lukewarm response と言った場合に足りないのは、応じる側の熱意です。日本語は対象の甘さを指し、英語は主体の熱意の低さを指す——同じ温度の語から抽象へ写像するときに、視線の向きが逆を向く。訳語表の上では一対一に見えていたものが、比喩の階に上がった瞬間に別々の部屋へ行ってしまう。
英語側の比喩には、たどれる筋があります。新約聖書の黙示録に、熱くも冷たくもない者を口から吐き出す、という有名な一節があり、そこで使われた語が英訳では lukewarm に当てられてきました。以来この語は、態度が半端であることを責める文脈と強く結びついています。日本語訳では多く「なまぬるい」が当てられます。ここで見ておきたいのは、日本語の側が接頭辞を足している点です。「なま」を冠して初めて、態度への非難として据わりがよくなる。裸の形容詞のままでは、この文脈にはいくぶん軽い。英語が一語で担っている非難を、日本語は複合語を組んで受け止めている。訳語表では対応していても、一語に背負わせている重さが違います。
語のかたちにも共通点と差があります。lukewarm の luke は、それ自体が「ぬるい」を意味した古い語に由来し、そこへ warm を重ねた重複表現だとする説が知られています。ドイツ語の lauwarm も同じ構えで、lau が単独でぬるさを表す。ヨーロッパ側の言語は、中間温度専用の語根を持っていて、そこに「暖かい」を接ぎ木した。日本語のほうも語幹の「ぬる」が独立していて、「ぬるま湯」「ぬるむ」と派生する。構造としてはよく似ている——似ているのに比喩がずれる、というのが厄介なところで、似ているぶんだけ訳者は油断します。
日本語側の比喩が向かった先も見ておきます。同じ語幹から作られた「ぬるま湯」は、複合名詞としては温度の低い湯にすぎませんが、慣用の言い回しに入ると、居心地がよくて出るきっかけを失う環境を指します。これを英語に移すと、温度は残りません。comfort zone のような、空間の比喩を持つ表現へ置き換わる。日本語は温度で、英語は場所で、同じ状況を言い当てている。逆向きも同様で、lukewarm reception を訳すときに温度語を使うとしても、多くの訳者は「冷ややかな」を選ぶはずで、この形容詞はまず選ばれない。中間の温度を指す語が、一方の言語では中間の態度へ、他方では低い側の態度へ振り分けられる。目盛りは共有できても、目盛りから比喩へ渡す配線が言語ごとに違っているわけです。辞書がこのずれを注記しにくいのは、見出しの段階では確かに一致しているからで、破綻は用例の階でしか見えません。
日本語を書く側にとって重要なのは、この語が温度計ではなく評価だという点でしょう。「ぬるい風呂に入った」と書けば、湯温を述べたつもりでも、その人物が不満を持ったことまで書いたことになる。中立に温度だけを提示したいなら、数値を出すか、湯を張ってから経過した時間を書くほうが安全です。逆に、人物の判断をひとことで漏らしたいときには効率がいい。会議の描写でも、風呂の描写でも、この語を置いた瞬間に、書き手ではなく視点人物が採点を始めます。