明治二十年に第一篇が出た二葉亭四迷の『浮雲』は、言文一致の実験作であると同時に、小説が描ける対象を広げた作品でもありました。雅文の伝統は、流れるような所作やたおやかな立ち居振る舞いを描く語彙を豊かに持っていました。しかし、挨拶の途中で言葉に詰まり、言うべきことを切り出せず、想い人の前で態度を決めかねる身体——つまり、うまく動けない身体を精密に書く道具立ては、書き言葉の側に乏しかったのです。『浮雲』の主人公内海文三が、まさにそのうまく動けない人物として造形されているのは象徴的です。口語に近づいた文体は、優雅さの型から漏れる身体を、初めて小説の中心に据えました。
「ぎこちない」は、この転換のあとで地の文に定着していった口語的な語のひとつと考えられます。語源には複数の説があり、定説を見ません。古くは「ぎごちない」とも書かれ、現在も多くの辞書が両形を併記します。規範的な書き言葉の中で長く磨かれた語であれば、形はもっと早くに一本化されていたはずで、この揺れ自体が、話し言葉の側で育った語であることの傍証といえるでしょう。雅文の規範から見れば俗な響きを持つこの語は、口語体の小説という受け皿を得て、はじめて描写の道具になったのです。近い意味の「たどたどしい」が発話や歩みなど遂行の危うさに寄るのに対し、この語は動きの硬さそのもの、つまり見た目の質感に寄っている点も、観察の言葉として重宝された理由でしょう。
語形をもう一段分解すると、別の非対称も見えてきます。末尾の「ない」は、否定の助動詞ではありません。「ぎこちある」という肯定形が存在しないからです。同じ構えの語は日本語にいくつもあります。「あどけない」「せわしない」「はしたない」「いとけない」——どれも、対応する肯定形を持ちません。語の一部として溶け込んだ「ない」は、否定の意味を失って、その語の輪郭のほうへ吸収されています。この事情は、由来が定まらないことと無関係ではないでしょう。「ぎこち」という要素が単独では現れないので、他の語と比べる手がかりが乏しいのです。分解のきかない語は、来歴をたどる糸口を持ちません。近代の書き手たちは、出どころの分からない、しかし口の端では確実に通じる語を、そのまま描写の道具として採用したことになります。
近代小説がこの語を必要としたのには、構造的な理由があります。近代小説の中心的な主題のひとつは自意識、すなわち自分が他人にどう見えているかを気にする心であり、自意識は身体の動きを硬くするからです。視線を意識した瞬間に、腕の振り方が分からなくなる。「不器用に」が技能の欠如という恒常的な性質を指すのに対し、この語は、本来ならできるはずのことがいまこの場ではできない、という一時性と場面依存性を含みます。恋愛の場面や初対面の場面で多用されるのは偶然ではありません。昭和に入って太宰治が『人間失格』で描いた、恐れを道化で覆い隠す主人公も、この系譜の延長にいます。うまく振る舞えない自分を隠すための過剰な芸は、硬直の裏返しでした。
活用形の選び方も、効果を大きく左右します。「ぎこちない沈黙」と書けば、硬さは場のほうへ帰属します。誰が硬いのかは名指されず、二人のあいだの空気だけが名づけられる。連用形にして「ぎこちなく立ち上がる」とすれば、硬さは動作に貼りつき、それを担っている身体がはっきりします。同じ語でありながら、連体形は場面を、連用形は身体を修飾するわけです。近代の小説がとくに多用したのは後者でした。動作を追いかけながら、その動作の質を一語で採点していく書き方です。連用形はかならず動詞を必要としますから、書き手は先に、その人物が何をしているところなのかを決めなければなりません。硬さだけを漂わせて済ませる逃げ道が、この形には用意されていないのです。
創作の観点では、この出自がそのまま使いどころの指針になります。これは観察者の語です。本人は自分の動きの硬さを内側からは感じ取りにくく、感じるのは見ている側か、他人の視線を経由して自分を見直した本人です。一人称の地の文で「ぎこちなく笑った」と書くなら、語り手が自分を外から眺める一拍——鏡、窓ガラス、相手のかすかな表情の変化——を先に挟むと、近代小説が百年かけてこの語に負わせてきた自意識の重みが、そのまま効いてくれます。逆に三人称で使えば、視点人物が相手の身体をよく観察していることの証拠になる。副詞ひとつが、視線の所在を示す計器として働くのです。