一九二七年七月、芥川龍之介は睡眠薬の服用によって自ら命を絶ち、遺稿「或旧友へ送る手記」に、動機として「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という一句を残しました。個人の遺書の一語が、そのまま時代の見出しとして引用され続けるのは珍しいことです。同じ年の春には金融恐慌が起き、関東大震災からの復興もなお途上でした。名指せる敵ではなく、輪郭を持たない先行きの暗さ。昭和初年の空気を、後代の多くの論者がこの一句に重ねて読んできた。焦点の合わない状態を指す一つの副詞が、時代の手触りを運ぶ器になったのです。
この語の本来の持ち場は視覚です。輪郭が取れない、像を結ばない、霞んでいる。そこから心理の領域へ移り、対象を欠いた情動の形容になりました。恐怖には対象があり、不安には対象がない、という区別は心理学でしばしば語られますが、芥川の一句はまさに後者を、視覚の語彙で言い当てています。見ようとしても像を結ばないもの——不安の正体をこれ以上うまく写す修飾は、なかなか見つかりません。
一方で、この副詞が描いてきた風景そのものも、近代のあいだに大きく入れ替わりました。行灯や燭台の乏しい光の時代、屋内の夜は例外なく薄暗く、輪郭の溶けた空間が日常でした。明治後期から大正にかけて都市部に電灯が広がると、その薄明かりは日常から退いていきます。谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で、失われつつある薄暗がりの美を論じたのは一九三三年——照明の近代化がかなり進み、ぼんやりした明るさが郷愁の対象へ変わりつつあった時期です。照らす技術が変わると、同じ副詞の指す風景が変わる。江戸の夜を書くときと現代のオフィスを書くときとでは、この語が背負う光の量がまるで違います。
年表を並べると、入れ替わりの速さがもう少し具体的に見えます。横浜の馬車道にガス灯が点ったのは明治五年でした。銀座にアーク灯が並んだのがその十年後、東京電燈が一般への電灯供給を始めたのは、さらに五年ののちです。行灯や蠟燭の下の明るさと、電球の下の明るさとでは、目に届く光の量が桁で違います。都市部の夜の室内から薄暗がりが退くまでに要した時間は、およそ一世代ぶんです。明治の半ばに生まれた人は、輪郭の溶ける夜と、輪郭の立つ夜の両方を、同じ一生のうちに経験したことになります。この語が郷愁の匂いを帯び始めるのは、おそらくその世代からでしょう。失われつつあるものにしか、人は郷愁を向けません。街路の側でも事情は同じで、灯りの届かない一角が都市から減っていくにつれ、薄暗がりは日常の条件から、わざわざ探して味わう例外へと立場を変えていきました。
語の形の側にも、意味が人の属性へ移りやすい理由が用意されています。この副詞は「する」を伴って述語になれます。同じく様態を述べる副詞でも、しとしとする、ざあざあする、とは言いにくい。動きの様子だけを述べる語は動詞化を拒みますが、状態そのものを指せる語は「する」を取り、「している」で持続に、「した人」で人柄に移れます。一時の見え方から恒常的な評価へ滑り出す通路を、この語形ははじめから内側に持っていた。近代の学校と職場は、その通路を使っただけとも言えます。制度が語を歪めたのか、歪みうる形をした語が制度に見つけられたのか。順序をどちらに置くかで、語史の読み方は変わります。少なくとも、視覚の語が人物評へ届くまでの距離は、この語の場合きわめて短いと言えます。近縁の語に、これほど滑らかな通路はありません。
人に向けられたときの評価の重心も、近代が動かしました。学校と工場が分刻みの行動を求めるようになると、ぼんやりしていることは単なる状態の描写から、咎めの語へと傾いていきます。ぼんやり者、ぼんやりするな。時間規律と効率の尺度が人間に適用されたとき、焦点の合わない時間は欠陥として名指されるようになった。この重心は今も残っていますが、近年は逆に、何もしない時間の効用が語り直されてもいます。一つの副詞の評価が、労働と時間の制度に引きずられて振れてきた。
つまりこの副詞の背後には、照明の歴史と規律の歴史が二層になって畳まれています。書き手がこの語を置くとき、指しているのが行灯の光なのか、電灯の下の放心なのか、規律からの脱落なのか、規律からの解放なのか——どの層を指すかで、同じ副詞が運ぶ時代の空気は変わる。芥川の靄から谷崎の陰翳まで、この語は近代日本の明るさと忙しさの変遷を、小さな身体でずっと記録してきました。